沖縄修学旅行おぅらいデジタル・アーカイブ
平和への願い

戦中・戦後の子どもの視点からのオーラルヒストリー(山里栄昭氏)


戦中・戦後の子どもの視点からのオーラルヒストリー
山里栄昭氏

7.当時の食生活について

聞き手A
あの、ご家庭での、えっと、食事というか、食卓にはどのようなものが並んでいたんでしょうか。
山里先生
食卓はですね、まあ普通は、うちで米をつくっていましたので、あの、ご飯は米のご飯があったと思い、あ、ありました。もちろんイモも。イモはもうふんだんにありましたので、さっきも言ったように、ウマにも食べさせるぐらいのものがありましたのでね。それから、野菜も全部自分でつくっておりましたので、野菜をつくるとかですね。
それから、うちのおばあさんはですね、もう70過ぎても、あの、海に行くんですよ。で、自分自身の、あの人の自分自身の蛸壺を持っているんですね。で、蛸壺は娘にも教えないというぐらいの。で、確実に捕ってくるんですよ。
もうみんな心配して、年、年寄りですから、もう海に出るなって言ってるんですが、必ず行くんです。で、行ったら必ず捕ってくる。で、タコが捕れない場合はカニですね。カニをたくさん持ってくるとか、貝を採ってくるとかですね。ですから、海のものもたくさんありました。
タコは特に、こうゆでて、天、天日に干してですね、ぶら下げておいて、毎日食べさせてくれました。ですから、自分でももう、ぶら下がっていますので、切っていつでもしゃぶることができました。
だから食事は、まあそれ。たぶん、だいたいその、そういうかたちのものを取っていたと思います。
聞き手A
いまで言うおやつみたいなものとか、甘いものはありましたか。
山里先生
おやつみたいなものはなかったんですけれども、学校から帰るとですね、えー、どういうわけかニンニク、ニンニクを漬けてあるんですよね。ニンニクはありました。ニンニクを漬けてありましてね、ええと、ニンニクとイモをくれました。おやつはですね。だからニンニク、ニンニクはよく食べましたです。
それと味噌。これがおやつです。まあタコは、タコはいつでも食べられましたけどね。そういうものがおやつでした。
ああ、それから、さっき夕飯の話ししましたかね。えー、いつも遅いもんでですね、遅いもんで、もう私、居眠りして、充分に食事を取らないで、よく怒られておりました。
食事が遅いんですよね、夜ね。みんなあの、石垣まで行って、そこから、えー、おかずを買って、それから料理をつくって食事するもんですから。何か食べない、あの、居眠りして食べないと、夜中に何かが出てきて、鍋をがらんがらんと鳴らすよといって脅かされてですね、ちゃんとご飯を食べるように、よく言われました。
聞き手A
お風呂とかは、どういったかたちで入っていたんですか。
山里先生
お風呂はですね、お風呂そのものは、もうないですね。ですから水浴びですね、水浴び。えー、ちょうどうちの隣に井戸がありましたので、その、その井戸はですね、雨水じゃないんですよ。まあ半分半分かな。飲み水にはもう使えないですけれども、そういうシャワーだとか、そういったものには使えましたので、そこから運んできて、そして水浴びをするという程度です。おふ、お風呂はもうなかったです。風呂はない。
稲福先生
あの、普段の、あの、子どもたちの服装というのは、どのような。
山里先生
服装はですね、いま考えると、ここにもありますので、学校へ行くときはたぶん、学校のそういう服装があったんでしょうね。ありま、ああ、ありました。だからそれを着ていますが、普段は着物ですね。着物。着物で、えー、まあ遊ぶときははだし。はだしですよね。正月のときは特に、まあ、げたを買ってもらったとかですね。それが一番の楽しみでした。げた、げたですね。 服も帽子も、帽子が、帽子もあるっちゅうなのは、これはちょっと、あんまり、ね。帽子かぶってるのも、かぶってないのもいますけど、一応あったんですね。服はありました。
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【参考資料】

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