沖縄修学旅行おぅらいデジタル・アーカイブ
平和への願い

戦中・戦後の子どもの視点からのオーラルヒストリー(山里栄昭氏)


戦中・戦後の子どもの視点からのオーラルヒストリー
山里栄昭氏

6.小学校の運動会・遊び

稲福先生
あの、小学校の、そのころの、まあ、あの、低学年のころかね、中学年のころの、あの、学校の様子というか、先生自身が、あの、えー、感じられたことみたいなことなどがありましたら。
山里先生
ああ、そうですか。そうですね、ええと、私は、あの、非常にスポーツが好きで、特に、えー、鉄棒ですね。あの時分、鉄棒っちゅうなのが非常に盛ん、盛んでした。ですから、よく鉄棒をしておりましたが。えー、まあ、それは高校になっても、ずっと鉄棒を、まあ、やっておりましたんですがね。
それからランニングも、まあ足が非常に速いほうだったんで、えー、あの時分、郡の運動会っちゅうなのが、郡、郡というか八重山郡のですね、運動会っちゅうなのが毎年ありまして、小学校は4、5、6の小学生は、リレーが一つの種目としてありまして、4年生からずっと代表で出ていました。4年、だから5年も6年もということですね。まあ、そうですね。
稲福先生
あのころの運動会というのは、どのような。いまとは違うんでしょうか。
山里先生
運動会はですね、いまとだいたいおんなしようなかたちですけれども、主にそういう、まあ走るのが主な競技になっていたと思います。だから、マスゲームだとか、いまやっているような、そういうようなものはあまりなくて、ほとんどが走る競争だったと思います。
まあ、走る競争では、いつもいい成績をとっていました。1番でした、いつも。
稲福先生
小学校の授業が終わって、まあ学校から帰るとか、その道なかとかでの思い出とかはございますか。
山里先生
そうですね、まあ寄り道といえば、あの、ちょうど友だちの家に、あの、大きな木があって、そしてその木の上に、あれ何ちゅうんかな、ダン、ダン、ダンですね。ダンをつくって、まあそこで4、5名集まって、えー、まあ上に上って遊んだと。というものがあります。
稲福先生
これは何歳ぐらい。小学校で。
山里先生
4、5、4年か5年ぐらいのときだったと思いますね。
あの、さっきも学校が大浜集落、それから平得、真栄里という、えー、から成っているということを言いましたけれども、やっぱりそれぞれの集落ごとの対抗意識というようなのもありましてですね。けんかもやりましたよ、集落ごとに。集落ごとのけんかもありました。まあ、けんかといっても、ほとんど石を投げ合うとかっていうかたちのものですね。そういうのがありました。
そのほかの遊びっちゅうのは、小学校のときはあまり。あまりないですね。木の上に登るっちゅうなのは、木登りは結構、結構ありましたよ。木登りはね。木登りはするし、あるいはそこに、さっき言ったダンをつくるとかっていうかたちのものですね。
それからあの、海辺にはヤラブが、大きなヤラブの木がありましたので、そこに、えー、ブランコをつくっ、つくって、ブランコ遊びですね。それからブランコで、えー、この、飛ぶの。これ、どないして飛ぶのかな。こう、こうして飛ぶのがありますよね。飛び勝負。それなどはよくやりました。
そうですね、そういう遊びを。
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【参考資料】

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