首里城の復元と沖縄の文化 高良倉吉氏
1.私の琉球史探求 (9)アジアのなかの琉球像の検討
- 次に、その中でなぜ首里城なのかという問題に移りたいと思いますが、実は3ページの地図にありますように、まさに東アジアと東南アジアという広い世界を駆け抜けたといいますか、行き来した琉球王国の人間たちですけれども、いったい誰がそういう交流活動を担っていたのかと。つまり、その活動、事業の一番中心的な存在は誰なのかということ。
- これは琉球王国の問題に絡むのですけれども、結論から言うと、実はそれは首里城に君臨する王だった。王様がアジアとの交流事業の経営責任者、事業主体だったことが、さまざまな資料を使って明らかにできます。
- そうすると、東南アジアに行った船は、要するに王が持つ船、公的な船。船に乗っていく人間たち、スタッフたちも、王の家来だったというわけです。それを証明するさまざまな資料が残っています。
- ですから、首里城というものは、琉球の島々を支配する政治・行政的な拠点であっただけでなく、アジアとの交流事業の総本部というか、ヘッドクォーターとして機能していたということが明らかになるわけです。
- 首里城の王は、例えばマラッカ、いまのマレーシアに行くメンバーたちがいるとしますと、その壮行会、激励会のようなものは首里城で行うのです。王が臨席して行います。そして、船の航海の無事を祈るイベントが開かれます。そのイベントの中心部分は女性たちによって行われた。神に仕える女性、神女というのが当時琉球にはたくさんおりまして、彼女たちは霊力があり、霊的なパワーが高いわけです。その人たちが神様にお願いする神歌、「おもろ」といいますが、それを歌って航海安全を祈ります。
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