沖縄修学旅行おぅらいデジタル・アーカイブ
沖縄の世界遺産

首里城の復元と沖縄の文化
高良倉吉氏

1.私の琉球史探求


首里城の復元と沖縄の文化
高良倉吉氏

1.私の琉球史探求
(10)アジアとの交流

その歌が実はたくさん残っています。『おもろさうし』という文献にその歌が残されていまして、非常に昔の古い言葉で書いてあるので、現代人はほとんど理解することができないという歌ですけれども、それをさまざまな専門家たちが分析して、いまはだいたいその意味が解明されておりますが。その歌を読みますと、やはり女性たちが神から与えられた霊力を使って、この航海の無事を祈るという作業をしたことが分かっています。
そのほかに『おもろさうし』という資料の中には、首里城の王様が自ら神歌を歌ったと。こういう歌をつくったのだと書いてある。王様も、これからマラッカに行く船の無事を強く願ったことが、この歌の中に示されております。
ですから、アジアとの交流事業というのは、琉球王国にとっては実は極めて大事で、王が自ら激励会を開き、そして神歌を歌って家来たちを送っていく、そういうものだったということが分かります。
これは私、歴史研究者の想像ですけれども、マラッカから帰ってきますと、今度は慰労会が首里城で行われるのですが、たぶん首里城というお城は、大げさに言えば、当時アジアの中で最もさまざまな情報が飛び交う場所。マラッカでこんなことがあったとか、アユタヤでこんなことがあった、現在のインドネシアのパレンバンでこんなことがあったとか。これは小さな島なのに、日常的にアジアのさまざまな情報が飛び交うような、そういうお城だったと思いますね。
実際にそれを証明する、いくつかの記録が残っています。例えば、3ページの地図の中で、現在のインドネシアのスマトラ島の南東部に、パレンバンという国際貿易港がありました。私はここに3回ほど行きましたけれども、ムシ川という巨大な川が海に注いでいまして、その川を70キロ、80キロさかのぼったところに、このパレンバンという国際貿易港があったのですが、このパレンバンに関する琉球側の記録が残っています。
琉球の船がパレンバンに貿易に来たときに、パレンバンの人間がこう言ったというのですね。「『おたくの琉球の船は、最近アユタヤに来ていない。また来てくれませんか』というメッセージ、言付けを、われわれはアユタヤの人間から言われている」という話です。うんと離れたアユタヤの人たちからのお願い事が、パレンバンの人間に伝えられていて、この港町を訪れた琉球の人間に、「アユタヤにまた来てくれと向こうは言っているよ」という伝言を頼まれているのですね。
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【参考資料】

「沖縄の世界遺産」

※資料随時追加予定