首里城の復元と沖縄の文化 高良倉吉氏
1.私の琉球史探求 (11)王国の司令塔
- なぜそんなことがあったかというのは理由がありまして、当時の記録が残っています。琉球の船がアユタヤに行ったときに、向こうにややたちの悪い貿易庁長官がいまして、琉球の船に対して高い関税をかけたのですね。それでは、遠く海を越えてやってきた琉球の人間としては合わないじゃないか、大損じゃないかといって、琉球側はアユタヤの王に文句を言うのです。改善してくれと。
- しかし、数年間はなかなか改善されなかった。ついに琉球の人間は、抗議の意味でアユタヤ行きの船をストップするのです。その代わり、熱心にパレンバンに行くようになるのです。したがって、アユタヤとしては琉球の船が来ないと困るものですから、それで「来てくださいと言っていますよ」とパレンバンの人に言われたわけです。
- その伝言を聞いて、翌年、琉球の船が再びアユタヤに行くようになっておりまして、そのときにアユタヤ側からは、問題の貿易庁長官を首にしたと。琉球に対して、不当な関税はかけないという措置をとることにしたという説明があったと。そういった記録が、琉球側の記録に残っています。
- ですから、そういう小さな島々を治める首里城というお城ですけれども、まさに3ページに示しましたようにアジア狭しと活動していたものですから、そういう国際海外情報が、まるで日常会話のようなかたちでささやかれる状況だったのではないかと思います。
- その首里城のことですけれども、1枚目に戻りまして、首里城というのは要するに、島々を統治した琉球王国の司令塔だったのですが、分かりやすく言うと、1429年に首里城の王が琉球の島々を唯一支配する。敵対勢力を平らげて、首里城の王だけが琉球ナンバーワンであるという状況が、1429年に達成されます。これから数えますと、1879年まで約450年、500年に近い期間、首里城は琉球の島々に君臨する司令塔としての機能を担い続けてきたということであります。
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