首里城の復元と沖縄の文化 高良倉吉氏
1.私の琉球史探求 (8)現地調査
- 3ページですけれども、この琉球王国というものは、アジアの広がりの中で歴史や文化を形成したのだという問題です。これは私がつくった地図ですけれども、実はさまざまな記録を、琉球側の記録はもとより、交流相手の国々や地域の記録も当然リサーチしました。
- それから、この地図を描くためには、特に東南アジアに関してはポルトガルの記録がありまして、ポルトガルのリスボンというところに大航海時代研究センターというものがあります。そこに何度も行きましたし、リスボン大学も行きましたし、リスボンの北にコインブラという町がありますが、そこに有名なコインブラ大学という大学がありまして、そこの持っている資料も見せていただいたりして、そのポルトガル資料も使いながら、かつて琉球王国がアジアのどういう国々と交流していたのかという実態を描き出すということをいたしました。
- 当然、この地図に描かれた地域を、ほとんど飛び回って調査してきたと。実際に自らの足で現地に出掛けていって、例えばいまのマレーシアという国になっていますマラッカという国がありますが、いまはシンガポールから高速道路を使って、2、3時間でマラッカに行けるようになりましたけれども、そこに出掛けていって、地元の大学でマラッカの歴史を研究している先生方に教えていただく。それから、実際に琉球の船がいかりを降ろした港を見て回る。それから、マレーシアの博物館に、どういう昔の遺物といいますか、歴史の証拠が残っているかということをリサーチして歩くということを、ずっとやってきました。
- そして、これは私のようにあまり知恵のない者が、実際に現地に行って、現地に立って、琉球の人たちがいかに遠いところまでやってきたかという実感ですね。例えばマラッカなどは、もう赤道直下に近いところです。夜は南十字星が非常にきれいに見える地域ですけれども。
- そのマラッカに関しましては、このとき琉球の船が結構頻繁に行っておりまして、それについて、当時マラッカを訪れたポルトガル人が書き残した記録が残っています。トメピレスという人物が書き残した、非常に興味深い琉球史に関する描写が出てきたりします。
- それから、現在はタイという国ですが、当時はシャムと呼ばれた王国がありまして、その都がアユタヤという都でした。現在はバンコクが都ですけれども、この当時はまだバンコクはできておりませんで、いまのバンコクから70キロ北にあるのが、このアユタヤという世界遺産に指定されている町です。もちろん、そこも10回ぐらい調査に行ったと思いますが。
- そのアユタヤで、やってきた琉球の船乗りたちと親しくなったポルトガル人がいます。ディエゴ・デ・フレイタスといいますけれども、彼が琉球人との対話の模様を書き残した記録がリスボンに残っております。
- そういった記録を参考にしながら、琉球の人たちが出掛けていった世界というものの広がりと、そこに行き来できるまでどういう船を使ったのか、どんな航海技術を持っていたのか、それからどんな情報を持っていたのか。
- さらには、多くの国々に行っておりますので、いったいどんな言葉を使ってコミュニケーションしたのかといったことも含めて、さまざまな疑問を現地を旅することによって調査し、現地からも問題提起をされて、それを引き受けて沖縄に帰ってきて、ときどき泡盛を飲みながら考えるということをしてきたわけです。
- そのように自らの身体を動かしながら、小さな島々を舞台にした琉球王国の世界というものを考えていくということをやってきたということであります。
- 1枚目に戻りましょう。一応、それが私のやってきた研究テーマであります。
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