首里城の復元と沖縄の文化 高良倉吉氏
1.私の琉球史探求 (7)鹿児島県と沖縄県の県境
- ちなみに、お手元の4ページの地図で、沖縄島と与論島の間に複雑な線引きがされています。これは鹿児島県と沖縄県の県境を示すものです。今日は詳しいことは触れませんが、実は変な県境なのですね。
- 徳之島という奄美の島の左側に、硫黄鳥島という島があります。現在は無人島ですけれども、かつては人が住んでいた島。ここは実は沖縄県なのですね。本当は与論島と沖縄島の間に横に線を引けば、一番分かりやすい県境なのですが、この複雑なラインは何なのかと。これにも歴史的な根拠があります。
- 一つだけ言っておきますと、いまから400年前に、琉球王国はいまの鹿児島県、薩摩の軍隊の侵攻を受けました。3,000の兵が琉球に攻めてきて、琉球側も軍事力を通じて対抗するのですが、結局圧倒的な軍事力の差がありまして敗れていくわけです。その敗れた代償として、首里城の王が支配していた奄美の島々を、薩摩に割譲するという事件が起こります。400年前の出来事でした。
- 硫黄鳥島という島は、当時はもちろん人が住んでいまして、硫黄という鉱物がこの島で採れるのです。皆さんご存じだと思いますが、火薬をつくるときの主成分は硫黄です。後で触れますけれども、当時、首里城の王は中国の皇帝と非常に密接な関係がありまして、琉球の王が北京に君臨する王に提供した重要な貢ぎ物が、実は硫黄だったのですね。
- ですから、硫黄は琉球にとって死活問題だったわけです。それを薩摩が配慮して、では硫黄鳥島は残しましょうといって、これを琉球の領土にそのまま残して、あとは薩摩の直轄領になりますというように取り決めた400年前の出来事が、こんにちまで続いているというわけです。それで、こういう奇妙な県境のラインができたということですね。
- そういう島々を、かつて薩摩軍に敗れる以前は、喜界島とか奄美大島といった北の島々まで、琉球の王が支配していたということであります。
- 私は奄美の島々を何度も調査しましたけれども、薩摩に敗れて直轄領として取られる以前の奄美を、首里城の王がどう支配していたのかということを伝える、さまざまな記録が奄美に残っています。奄美の島々を回って、それを丹念に調査するということをずっとやってきましたし、現在でもやっております。
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