首里城の復元と沖縄の文化 高良倉吉氏
3.首里城復元プロジェクト (3)徹底した資料収集と分析
- 例えば鹿児島県に行きまして、『南日本新聞』という新聞が鹿児島県では出ていますけれども、そこに知り合いの記者の方がいて、天文館という繁華街で飲みながら言ったのは、「目的は、とにかくこういう資料が必要なんだ」と。「じゃあ分かった。鹿児島の県民の中で資料を持っている人がいるかもしれないから、呼びかけようね」といって、一つの欄をつくってもらいました。高良が鹿児島に来ていて、首里城を復元しようとしていて、とにかく資料が欲しいと訴えたものを記事にしてもらって、そうしたら鹿児島からたくさんの情報が寄せられました。
- そのように、要するに徹底的に資料を集めて分析をするという。そして、その資料に基づいて徹底的に首里城を解剖して、そこから復元に必要な資料を抽出する。取り出していくわけです。
- そしてその情報を、一緒に作業している建築家の人間たちと形にしてみるという作業をずっと繰り返しながら、例えばこの建物のこの壁はどんな壁なのかと。向こうの奥にある柱は、円い柱なのか、四角い柱なのかと。円い柱だったら、直径はいったい何センチなのかと。上のほうでどのように組み合わさっているのかという非常に細かい作業を、ずっとそういったものを通じてやります。
- それから、先ほど、首里城ではアジアに出掛けていく家来たちの壮行会とか、慰労会が行われると言いました。そういうイベントをしたときの資料が残っています。首里城の平面図があって、このイベントはこのようにやったのだと。そういったものを分析します。
- その資料は、この慰労会のときに人はどうやって動くか、どこにどういうディスプレーをして物が置いてあるかということの資料なのですが、それは同時に建築的な資料になる。この広場がどう使われたのかと。この広場の中で一番尊い場所はどこなのか。どこがイベントの中心的な場所なのかということが分かります。要するに、この広場のこの場所にこんな意味があるから、建物がこういう配置になっているんだというようなことが分かっていくというわけです。
- それから、首里城には中国の北京の皇帝のミッションが、しばしば派遣されてきた。400、500人の中国人が琉球に来るのです。彼らを迎えた大変な大イベントが、首里城の「御庭(うなー)」と呼ばれている広場で行われました。
- そのイベントは、実は大変重要でして、琉球という小さな国が、いかに文化力が高いかということをアピールする場面だったのですけれども、首里城の御庭(うなー)という、40メートル×50メートルぐらいの広場で、あしたご覧になったらいいと思いますが、そこに仮設のステージをつくるのです。そして琉球の最高の芸能を、ここで中国人に見せるのです。
- このあいだ、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が「組踊」を世界無形文化遺産に指定しました。皆さんは昨日、それをご覧になったようですけれども。あれは実は、首里城の御庭(うなー)につくられた仮設ステージで演じられた。あれが最高のステージだったのです。そのときに、中国の人間たちは筋書きが分かりませんから、この出し物はこんなあらすじですよと、中国語で書いたあらすじがいまでも残っています。
- 北京に行きましたら、やってきた中国の人間たちはそれを見て、こんな意味で琉球の人に教えられて、とても感動した芸だったと、そういう感想を書き残しています。
- ですから、そういった大変大事な芸能フェスティバルといいますか、芸能祭典といいますか。そのデータを集めて、仮設ステージをどこにどうやってつくったのかと。どこに地方(じかた)という楽団がいるのかと。役者はいったいどの建物から出てきて、どこでコスチュームを着けて出てくるのかと。そういう芸能関係のものを分析することによって、首里城の建物が分かってきます。
- つまり、現役で使われていた首里城を見ることによって、そこから呼吸をしていた首里城の情報を採るという作業も、ずいぶんしたわけです。
3.(3)徹底した資料収集と分析 1 /2へ
「沖縄修学旅行おぅらい」は、学校教育利用を目的としたデータを使用しています。
利用の際は、文化庁で示されている 「学校教育での自由利用」を守って利用してください。
Copyright(C) 2011 Gifu Women's University. All rights reserved.
|