首里城の復元と沖縄の文化 高良倉吉氏
3.首里城復元プロジェクト (3)徹底した資料収集と分析
- 具体的には、それは二つのことを意味する。まず、首里城に関する本格的な研究を始めてみようということになります。首里城を研究しなければ、まさに首里城を解剖しなければ復元はできない。当然、そういうことを意味するわけですね。
- そのためには、二つ目は何かというと、徹底した資料収集をしようと。それは、先ほどのアメリカ軍が撮った空撮の写真から、戦前の古写真は当然です。発掘調査をして地下に埋まっている情報を採る、それも当然です。琉球王国時代の首里城に関するさまざまな資料を、徹底的に収集して分析する。
- 例えば、首里城を訪問したのは、皆さんご存じかもしれませんが、1853年にペリー艦隊が日本に来ますね。浦賀に黒船が来るわけですが、ペリー艦隊がどのような行動をしたか分かりますか。
- ペリー艦隊はアメリカのバージニア州のノーフォークという海軍の基地を出発して、大西洋を南に下って、アフリカの喜望峰を迂回(うかい)して、それからインド洋に出て、マラッカ海峡に出て香港に来るのです。アメリカを出発したのはほぼ同じですけれども、みんな途中でばらばらになりますから、香港がゴールだったのです。香港に終結してペリー艦隊が編制されるのです。
- ペリー艦隊はビクトリア湾で編制されて、そして上海に行きます。上海で日本に行くための準備をするのです。そして、ペリー艦隊は一挙に東シナ海を越えて、那覇にその姿を現した。那覇にスタッフや船を残して、それから主な艦隊を率いて、ペリーは浦賀に行くのです。
- ですから、浦賀に行ったとき、実は那覇にはスタッフや船が残っているのです。琉球という場所が、対日本交渉の拠点として非常に使い勝手がいいと、ペリーは分析している。ペリー側の資料を見ると、彼は最初からそういう戦略を立てて行動したことが分かっています。
- ちょっと余談ですが、大西洋に浮かぶマデイラ諸島というポルトガル領の島々があります。私も1回、行ったことがあります。ペリー提督はマデイラ諸島に寄港したときすでに、徳川幕府がかたくなに開国を拒んで、アメリカとの条約を結ばないというときには、私の考えでは琉球諸島を押さえて、そこに拠点を置きたいと、アメリカの大統領に意見書を出しているのです。それぐらいに琉球の地理的な位置というものを、ペリーは分かっていたということですけれども。
- そのペリー艦隊は、琉球で天文観測をしたり、当時実用化が始まっていた潜水服を着けて、沖縄の海にサンゴ礁を見に潜って、海底地形であるとか亜熱帯の魚のスケッチも書いています。それから、現在、アメリカを代表する植物園としてニューヨーク植物園がありますが、実はそこの奥のほうには、ペリー艦隊が琉球で収集した植物の標本がいまでも保存されています。私は1回だけ調査に行ったことがありますが。
- そのように、ペリー艦隊と琉球は、実は深いかかわりがあります。現在、那覇市に泊外人墓地がありますが、ペリー艦隊の水兵たちのお墓が4基か5基、いまでも残っています。サスケハナ号の乗組員のお墓とか、そういうものが残っています。
- そのペリー艦隊は首里城を訪問しておりまして、彼らが残したスケッチが残っているのです。つまり、ペリーが訪れた首里城をどのように見たかというのも分析する。とにかく首里城というものの現役時代を理解するためには、さまざまな資料を検討する。歴史の研究は私の専門ですから、その作業の中心は私になりました。
- 例えば、沖縄は戦争で相当焼かれましたけれども、沖縄の県民が必死になって守った系図があります。その系図をずっと収集して、検討して、ある家の系図の中に、何代目の方が何年何月何日から何日まで、城のどういう建物の修理工事に参加したかと、そういう履歴まで徹底的に洗いました。そうすると、いつごろこの建物のどういうところを修理したんだねとか、増築したんだねという情報が得られます。
- そういう、とにかく徹底的な情報収集。つまり、新車としての首里城を復元するため、復元に必要な資料をどれぐらいストックできるかということが問題で、それをやったのです。手分けして徹底的にやりました。
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