戦中・戦後の子どもの視点からのオーラルヒストリー 仲本實氏
4.再び山田国民学校へ (4)昭和20年10月10日の空襲
- 仲本先生
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結局そ、あの、非常に残念でね、それがね。何で2機もおってさ、はは、これ1機ぐらい落とせないの、ぐらいの。そして向かってもいかないわけでしょう。通り過ぎただけ。まあ、そんなことがあったりしましてね。ええ。あ、あったんです。
- そうすると十・十空襲では、この那覇の。ごめんなさい、話が前後になりますが、十・十空襲で、ここは、この辺に、あの、海が見えるんで、結局、那覇の中心街ですよね。いまのどの辺かな。若狭町か、その辺あたりじゃないのかな。こういったかたちになりましたね。十・十空襲で、もうほとんどなくなりました。これですね。これ、焼けてるとこです。
- と、私の祖母はここに住んでおりましたんで、ここは幸いにして、あの、残ったんですよ。うちが。これ、外れですからね。那覇市の外れですから。残ったんで、祖母はどうしたかというと、仏壇をまとめて、担いで、こんな、こんなに曲がってましたが、腰が。そして首里に、とぼとぼ、とぼとぼと登っていったんですね。
- と、首里には、自分の長女がおったんですよ。で、その長女のうちに行って、そこでなんお、何日かこう過ごして、やっぱりこの仏壇を担いでね、今度、山田まで来るわけです。歩いて。あれは何キロぐらいありますかな。8里ぐらいあるはずですから、30キロぐらいか。
- 30キロか32キロぐらいの道をね、とぼとぼと、この、こんなに曲がったような人が、何にも持たない、仏壇だけ、はは、持ってきたんですよ。それで、あの、山田に、要するにヌンドゥンチ(祝女殿内)に合流したんですよ。
- で、戦争中はその仏壇はね、その、山ん中に隠してあったんです。隠して、まあ戦後、出してきて、この仏壇はいまも私たちの仏壇に、こう、飾られていますけども。
- まあ、そんなこと、おばあちゃんのね、仏壇の思い出。まあ、祖先崇拝ですから、沖縄は。祖先を思う心というのがね、いまごろ分かりますねということですね。それからですね、え、まあ一応、その辺でお話終わっときましょうかな。ええ。
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