沖縄修学旅行おぅらいデジタル・アーカイブ
年表

久米村 具志堅以徳氏オーラルヒストリー
(具志堅以徳氏)


久米村 具志堅以徳氏オーラルヒストリー
具志堅以徳氏

6.芸能・琉球文化

聞き手
もう一つお聞きしたいのは、ここでそういう外交的な事柄と、貿易的な事柄とあわせておやりになったということと、それからもう一つ、芸能も含めた形で文化的なものはここに何かあるわけですか、そういう意味の。
具志堅先生
向こうへ行って、向こうの文化に触れると刺激を受けて、持ってきたんじゃないですかね、音楽でも文化的なものは。
聞き手
そうすると、そういう音楽なんかもこちらで、芸能関係もこちらで。
具志堅先生
向こうの影響を受けて、こっちへ持ってきて……。
聞き手
ここから広がってきたものがあるわけですか。
具志堅先生
いわゆる琉球文化です。
聞き手
ああそうですか。いわゆる琉球文化というというのが、中国だけではないんですけど、いろんなところを渡ってみえますから、そういうところからここへ来て、また一つのこの中の……。
具志堅先生
琉球を経由して大和に渡ったわけです。
聞き手
形の上ではそういう形で。その中で、何か特色のあるようなものはありましょうか。今残っているもので。ほとんど琉球文化ってそういうものだと思いますけれども、そういう意味で特色のあるものは何か、特徴的なものは。
具志堅先生
やっぱり傾向として見た場合に、日本の文化と多少差がある。それだけじゃないですか。これは日本文化にしてはちょっと変だぞと思うのが琉球文化です。
聞き手
そうすると、ここが一つの窓口になることは事実ですから、そうしますと、窓口になって今の沖縄の文化を形成してきた、形づくってきたものとして、日本からの文化も入ってくる、それから沖縄歴代のものがある、それから今、ここの久米村を中心にして中国等から入ってきた文化がここにあると。そこで今の沖縄の一つの、要するに沖縄とか琉球……。
具志堅先生
琉球と言われている文化の特色ですね。
聞き手
そういうものなんですね。
具志堅先生
と思います。
聞き手
そうすると、ああいう組み踊りやああいうものを見ましても、やっぱりそういうものででき上がってきたというふうに受け取っていいわけですね。そうすると、今までのいろんな文化の発展のもう一つの大きな原動力になってきた地域がこの地域だというふうに。
具志堅先生
それから、その琉球文化では沖縄らしさを対外的に見せるために、中国からこっちへ来た、いわゆる王位継承なんかで公務を帯びてきた中国人なんかで、琉球文化らしいものを、琉球でつくった文化でなぐさめるようなことをやっていたと思うんです。
聞き手
そうすると、この中で、今で言う芸能人ですね。そういう芸事に通じる人というのはおられたんでしょうか。今の芸能関係を中心にして。
具志堅先生
芸能関係は首里の氏族の役目だったはずです。
聞き手
そうですか。首里の氏族の役目で。伝えることは伝えたわけですね、そうすると。氏族は向こうへ行っていましたですね、一緒にですね。
具志堅先生
一緒に行っています。
聞き手
そうしますと、久米村自身でいろんな伝統的な踊りとか舞とか、芸能関係のようなものは何かあったわけでしょうか。
具志堅先生
まずないですね。あいう芸能関係は、農村の年間を通してのアネビカナ、そういうふうな行事は久米村にはないわけです。
聞き手
そういう年中行事というものはですね。これは昔からそうなんでしょうか。
具志堅先生
はい。久米村独自のものといってはないです。
聞き手
けれども、琉球としての行事は一緒におやりになっているわけですね。
具志堅先生
はい。
聞き手
盆の行事とかそういうものはあるわけですね。
具志堅先生
はい、あります。
聞き手
そうすると、こちらに帰化された形で、こちらの芸能とかそういう日常生活的なものは琉球文化として取り入れられて、その生活をされてきたということでしょうね。
具志堅先生
久米あたりでは、あまり芸能には関係しないんですからね。
聞き手
なるほど、わかるような気がします。
具志堅先生
遊びの一つというぐらいしか考えていませんからね。それでは久米の人は飯を食えないです。久米では、そういう面の公務というのはないんです。舞踊とかなんとかいうのは首里の方があるんで、首里の氏族にはそういうのがあるんだけれども、久米にはそれで飯が食えるということはないんです。
聞き手
まさに学問府ですね。なるほど。
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【参考資料】

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