久米村 具志堅以徳氏オーラルヒストリー 具志堅以徳氏
5.商売・公務・貿易
- 聞き手
- そうすると、貿易関係で商業というのをやっていたんでしょうか、商売は。
- 具志堅先生
- 商売も唐船に乗って中国に渡る役職につくと、その役職によって、向こうに持っていく荷物の量が与えられていたそうです。その範囲の種のものは持っていけるというものだから、みんな中国貿易の方を希望して、乗組員の一員になりたいと。そうすると、その乗組員としての階級によって積載量が与えられると。その範囲のものを持っていけば、十一倍といって 100円向こうへ持っていったら 200円になったそうです。それがあこがれの的だったらしいですね。あそこで 100円で買って持ってくると 1,000円分になると。それが魅力だったそうです。
- 聞き手
- そうすると、生活的にはそういうものの収入と、それから王朝から与えられる収入というのがあったわけですか、公務についてですね。
- 具志堅先生
- 禄があるわけです。そのほかに中国に行くということは、そういうような乗組員に与えられた特権を利用するというのが魅力だったらしいです。
- 聞き手
- そうすると、例えば冊封というんですか、中国の王室とお互いに提供し合いましたですね。船を出してやりましたですね。いろんな交易じゃなしに行政的に。向こうからの判をもらってきたりなんかしておりましたですね、王朝からの。そういうときの冊封なんかで向こうへ行かれるときにも、やっぱりここの人たちがついていったということですかね。
- 具志堅先生
- そうです。乗組員として。
- 聞き手
- また通訳としてもついていかれると。
- 具志堅先生
- 久米は通訳としても。
- 聞き手
- そうらしいですね。通訳としての働きもある。
- 具志堅先生
- 通訳として行くんだけれども、余得があるんです。
- 聞き手
- どこかで聞きました。その余得というのが割に大きいんだそうですね。
- 具志堅先生
- それは大きかったようです。それが魅力だったようです。
- 聞き手
- そうすると、ここは非常に昔は栄えた町だったわけですね。
- 具志堅先生
- 久米村といえば首里と匹敵するぐらいの実力があったようです。
- 聞き手
- それはそうでしょうね。貿易の中心ですからね。 そうすると、階級によって持っていく量が決まって……。
- 具志堅先生
- はい、決まっていて、その範囲の量だったら積めると。それを沖縄に持ってきて、沖縄に持ってきたら、沖縄だけで消費するんじゃなくて、これを島津が取るんですからね、島津藩が。
- 聞き手
- それは大きいですね。そういう貿易的なものもあったという……。そうすると昔は大した勢力を持っていたわけですね。
- 具志堅先生
- しかし、危険も伴ったらしいですが、生きるか死ぬかの冒険といいますか、それを乗り切ってこなければ金にはならんと。
- 聞き手
- そのころは大変な時期でしたから。その辺は明の時代からずうっと中国の間では続いておったわけですね、そういうことが。
そうすると、明以後ですから江戸末期までそういう形で来たということですかね。島津藩はありますけれども、交易のここが一つの元締めのような形になっていたということですね。これは大きいですね、収入というのは。
- 具志堅先生
- 大きかったようですね、昔としては。
- 聞き手
- そうしますと、今お聞きしたことになりますと、大体、今向こうへ行かれるときの中国を含めた、明の時代からそうですけれども、ずうっと行かれるときの一つの通訳とか、公文書の作成とか、外交的なですね。そういうものをおつくりになっていて、また東南アジアや朝鮮の方まで行かれたわけですね。そういうところの一つの元締めのような、中心の。
- 具志堅先生
- 周囲の国とは中国文化でつながっていたようです。
- 聞き手
- そのころはほとんど、ここに多分残っておっただろうと思いますけれども、ほとんど漢字社会だったんですかね、東南アジアも、公文書的なものも。
- 具志堅先生
- 沖縄に今も残っているはずです、歴代のが。あれが外交文書の控えみたいなものだと言われていたんですが、今もあるはずですよ。
- 聞き手
- やっぱり非常に中心的な形をつくっておったという……。
- 具志堅先生
- 大事にされていたらしいです。
- 聞き手
- 大切なところだったわけですね。
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