沖縄修学旅行おぅらいデジタル・アーカイブ
年表

久米村 具志堅以徳氏オーラルヒストリー
(具志堅以徳氏)


久米村 具志堅以徳氏オーラルヒストリー
具志堅以徳氏

3.学校教育・天妃宮・明倫堂

聞き手
明倫堂というのは学校なんですか。
具志堅先生
学校です。役所も兼ねているんです。普段は役所と学校が使っていたのが明倫堂です。
聞き手
それは大分古くから……。
具志堅先生
ええ、昔からあったようです。
聞き手
江戸時代、もっと前からですね。
具志堅先生
はい。今で言えば中学校、高等学校以上の学校です。小学校教育は明倫堂内に天妃宮、それから久茂地の学校なんかがあって、そこを卒業した者が明倫堂へ入るわけです。
聞き手
そこでは何を教えておったんですか。
具志堅先生
昔の「四書五経」、それから久米村で必要な学問ですね。久米村の人に必要な項目があったようです。
聞き手
やっぱりそれが一つのそういう文化的な伝統を守る、伝承する……。
具志堅先生
自然にそうなったわけですね。
聞き手
そういうことですね。それが一つの文化の中心だったわけですね。立派なものですね。それだけ長く続いているというのは。
具志堅先生
昔にしては立派なものだったんだろうと思うんです。
聞き手
ちょっとよそにない……。その伝統がずうっと何百年も続いてきたという形で、それがそれまでの久米村の一つの大きな仕事というんですか、役割を担ってきたもとになるわけですね。立派なものですね、それは。
具志堅先生
一応男の子は天妃の小学校の課程を経て、それから明倫堂に行ったようです。
聞き手
これはどういう家庭が、ほとんどの家庭がそうやって入ったわけですか。
具志堅先生
男の子は一応全部入ることになっていました。ただ、人間には学問に向く者と向かぬ者が昔からあって、学問に向かないのは、投げて、家業を継いでいる。素質のある者は学問の道を、自分の一生の道を立てていったわけですね。
聞き手
そのころのちょっとお話をいただけますか。そのころ、そういう文化を伝承していく、そういう学校をつくり、そしてそれが一つのここの文化を保ってきた、伝承してきた。その辺の何かエピソードなり、動きをお話し願いたいと思いますが。
具志堅先生
まず中国語の会話を主体に教えられていたようですね。単語といいますか、“チンテン”というような今日のこと、“ミンテン”というような明日、それを音だけで覚えさせられた。それが天妃宮とかいう小学校に当たる学校です。それから、それが中国文化が「四書五経」ですね。あれの初歩的な課程がその次の教材になるわけでしょう。
「沖縄修学旅行おぅらい」は、学校教育利用を目的としたデータを使用しています。
利用の際は、文化庁で示されている「学校教育での自由利用」を守って利用してください。
Copyright(C) 2011 Gifu Women's University. All rights reserved.

【参考資料】

※資料随時追加予定