奈良時代、大宝律令(701年)、養老令(718年)の施行により、租・庸・調などの税が課せられていた。当時飛騨国は、『延喜式』で国力が下国とされたため、庸・調の税が免ぜられ、代わりに里ごとに10人の匠丁(しょうてい)を出し、1年交代で、都での神社仏閣や御殿、門などの建立に従事するよう義務付けられた。
毎年、飛騨国から100人ほどが都に上ったとされるが、この制度は平安時代末期まで500年間続いたため、延べ4~5万人が都で徴用された。都に住みつき出世する者もいたが、厳しい労働に耐えかねて逃げ出す者もいたという。
飛騨匠の伝統は飛騨の中で受け継がれ、飛騨各地でその技術を見ることができる。