戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー
仲本實先生のオーラルヒストリー

参照リスト   (家族)

食事 食事

  2.死が近づく       3.母との再会  

1.変わっていった生活

 だいたい昭和の13年から15年ぐらいになると思うんですが、お話が。私は、父が、バスの運転手で。そのころね。母が幼稚園の教員をしていました。(略)

  小さいころは、その車(バス)に乗るのが楽しみで、いつも、おやじが来るのを待っておって。バス1台しかないですから、間違いなくおやじなんですよ。それで乗っかって、一日中ドライブしたり。そして、バスがね、いろんなものを乗せるわけです。田舎ですから。ヤギの子どもを持ってきたり、ブタの子どもが乗ったりですね。あるいは、農家の人がもっこを担いで乗ったり、いろいろな人たちが乗っていました。

  (アメリカ軍が)沖縄に上陸したのが4月1日と言われますね。そして、そのころの私たちのアメリカさんに対する情報というのは、まず、アメリカさんは山の中は歩けんというのが一つ。それから、目がくぼんでいるでしょう。外人はね、こう彫りが深いから。目がくぼんでいるから、横はあまり見えない。それと、夜は見えないと。だから夜は歩かないし、それから、隠れておってもよく見えないと。それから、山は歩けないから、山に逃げたら大丈夫という話を聞いていたんですよ。

 ところがね、私たちがね、隠れてるとこ。要するに、空襲がひどくなったんで、ひどくなったときに、隠れるところはですね、うちのこの祝女殿内のうちの後ろ側に防空壕を掘ってあったんですよ。そこが近いから、ばっと隠れる。そして、うんと(空襲が)ひどくなると、また今度は、一般の人たちが隠れていた大きな、自然壕があったんですが、そこに(避難しに)行くんですがね。

 ところが、うちのおやじは、そこよりも、自分たちでね、チビチリジャクというんですが、チビチリジャクで、シャクというのは、谷底のことですよね。尻が切れたシャクというから、結局、(人が)あまり来ないところなんです。そこに、自然の洞窟(どうくつ)があったんですわ。そうすると、つららが下がってますよね。鍾乳洞が。こういったものを割ったりして、それから下に床を敷いたりしてね、そこに(家族を)入れるようにしたんですね。

 そして、山ん中行ってね、穴掘って、そこにかめを埋めるんですよ。かめ。かめを埋めて、それに、米を入れるんですね。あちこちにこうやって。2カ所か、3カ所か4カ所だったと思うんですが。そして上から押しておくと、ほとんどわからない。そんな状態で食料を確保したんですね。それから穴も確保したんですね。で、その穴は、親せきと二家族で入るつもりだったんですが、実際戦争になってみると何カ所か来て、3、4カ所ぐらいになって、40、50名ぐらいになったんですかね。そんなぐらいになったんですが、その穴との近くに避難小屋といってね、茅葺きのうちを2棟建ててあったんですよ。茅葺きのうちをね。そうすると、そこはね、火をたいたり、ご飯を炊いたりするのに便利ですよね。そして、空襲になると穴の中に行く。夜は出てきて、そこで火をたいたりして、生活をしている。