戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー
仲本實先生のオーラルヒストリー

1.昭和13年~15年頃の生活

(1) 旧大里村字平川で生活

 母は幼稚園の先生、父は稲嶺駅東風平駅間のバス運転手。
 幼稚園の遊戯を見たり木登り、蝉取り、父のバスを待ち受けて乗り一日中ドライブ、たまにはサツマイモを炊いたり等かなり幸せな生活をしていた。父母と那覇に遊びに行くときは特にはしゃいでいた様な記憶がある。大人の真似をして完全に止まっていない列車から飛び降りて転び父母や駅員を心配させたこともある。

当時のバス
     (写真 「図説沖縄の鉄道」より稲嶺駅のバス)

(2) 昭和15年4月

 大里村立第二小学校に入学。運動会のリレーの選手になり練習をしていたが父親の転勤で那覇に引っ越すことになり、おしまれながら久茂地小学校に転校。

(3) 昭和16年4月山田国民学校に転校(二年生)

 山田には母の実家ヌンドゥンチ(祝女殿内)があり母方の祖母、いとこの兄妹と暮らす。山田の同級生は皆親切で、新入生の私を喜んで受け入れてくれた。学校から帰ると、牛・馬・山羊の草刈りや畑仕事・田んぼ仕事等を手伝ったりした。都会育ちの私はどの仕事も下手であったが、従兄や同級生が何時も助けてくれた。特に従兄の助けが大きかった。ここで三年生に進級し、平和な暮らしをしていた。

2.戦争近づく

(1) 泊国民学校に転校(四年生)

 父が名古屋から帰ったので泊国民学校四年生に転校。泊国民学校の生徒はかなり荒っぽく、新入生は喧嘩の順番が決まるまで毎日のように喧嘩をした。因みに僕は中間位で落ち着いた。もっと上にいける自信はあったがやめた。それ以上いくと一番ボスに虐められる心配があった。自分は相撲が強かったので自分の上にいる連中には勝てると思っていたが・・・でも那覇の喧嘩と田舎の喧嘩とではかなり違っていた。田舎は平手打ちで喧嘩するのに対して、那覇は握り拳で打ってくるので大変だ。私は田舎育ちが長いので平手を使う。おまけに自分から手を出せないので、ガーンと一発食らってから飛び掛っていくので頬はいつも黒くなっていた。

(2) 戦時色強まる

 泊国民学校に転校した頃から、社会が俄かに慌ただしくなってきた。体育の時間は徒歩訓練歩調取れ腕立て伏せ等戦争に繋がる事ばかりで、面白くなくなった。
 音楽の時間に飛行機のエンジンの音がすると、「今飛んでいる飛行機は何機だ」と質問され飛行機の数を数えに行ったりした。私は、主要三和音のあてっこと飛行機の当てっこは抜群でいつも褒められたものである。
 五年生になったら更に慌ただしくなった。街中で兵隊を多く見かけるようになったし、兵隊は銭湯に行くにも隊列を作り駆け足であった。銭湯でも二人一組になり交代で背中を摺ったりで、実に早いものであった。多分五分か十分で帰っていった。



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