戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー
仲本實先生のオーラルヒストリー

3. 最初の爆発音

(1) 船火事

 ある日登校すると窓から波之上の沖合いに船火事を起こしているのが見えた。あまり気にも留めないでいたが、三時間目の習字の時間に突然大きな爆発を起こし、教室の窓ガラスがビリビリと割れた、其の時の我々の行動は今も感心している。両手で耳と目を押さえて素早く机の下に伏せっていたのである。しばらくして先生が顔を上げ船の爆発を知らせたので、起き上がって見たら、今しも船が大きく割れて、沈んでいく所であった。

(2) 戦争は負ける

 父が軍属をしていた関係で、小生宅には良く将校が来て、父とお酒を飲んでいた。その話が隣の部屋に寝ていた我々子どもにも良く聞こえた。「仲本さん、今度の戦争は負けですよ。」小さな声であったが私にははっきりと聞こえた。将校と父は暫らく黙ってしまった。私は戦争に負けるとは思っていなかったので、その後の状態など想像も付かなかった。

(3) 内地疎開始まる

 ある日学校に行ったら、先生から「沖縄は戦場になる、おんな子ども年寄りが居たら戦争の邪魔になり兵隊さんが充分働けないので 内地に疎開するよう両親に話しなさい」との事であった。
 家に帰ってその話をしたら、両親は既にその話を知っていて、行きたいかどうかを尋ねた。内地に憧れていたので即座に「行きたい」と答えた。両親はしばらく話したり考えたりしていたが、三年生の妹と一緒に行く事になった。
 リュックに非常食スルメ、缶詰、傷薬、包帯、ガーゼ等を詰め準備をしていた。特に10m位の縄紐(遭難の時の自分を縛ったり、友達を救ったりする)は重要とされた。
暫らく日にちが経って、学校は兵舎になり私たちは前島の事務所(今の公民館)で授業をしていた。その帰りに何の事か忘れたが4~5名の友人から制裁といって殴られた。ひとりひとりで喧嘩すると勝てると思ったが、背後に青年まで付いているボスがいたので、抵抗できずみんなに殴られた。普段は安里川に降りて顔を洗い、泣いたあとを消してから家に帰るのであるが、その日は泣きながら帰った。泣きながらの帰り道、彼らと疎開したら何時も集団で虐められるのでは?と考え、疎開に行かないと父母に言い張った。

4. 昭和19年8月再び山田国民学校へ

(1) 山田国民学校

 父母は暫らく考えていたが、この際死ぬ事があれば家族一緒が良かろうと、疎開に行かない事になり、その代わり、山が多いヤンバルの恩納村山田(母の実家)に行く事になり、山田国民学校に再び転校した。友達は喜んで迎えてくれた。
山田国民学校も兵舎になっており、村の事務所で授業を受ける傍ら毎日のように壕堀りの土運搬や枠木に使う松の木の皮剥きに行かされた。

(2)対馬丸が沈んだ噂

 昭和19年9月頃那覇国民学校の生徒が乗った疎開船が魚雷攻撃で沈んだらしいとの噂があり、那覇の親戚の家族がとても心配していた。その親戚は金武に疎開する途中山田ヌンドゥンチに何日間か逗留していた。その船には彼らの長男が乗っていたから。実は私の乗る予定の船対馬丸であった。私は、その従兄と一緒に行く事になっていたが・・・。私が疎開しないと決めてから、私の父はその従兄にも危ないから行くなと何回も説得したようであるが、大和に行く事に憧れていた従兄は聞き入れなかったらしい。その結果帰らぬ人になってしまった。いまは小桜之塔に祀られている。僕には非常に優しいお兄さんだった。
その頃浜辺を歩くと油の浸み込んだ衣類やら材木などが流れ着いていた。きっと対馬丸の遭難者のものだろうと思った。対馬丸に乗った従兄の弟D夫と二人でその漂着物の中に黒いマント(昔高校生や大学生が羽織っていた物)を見つけ、拾って川の中で何回も何回も棒で叩いて、浸み込んだ油を取り除こうとしたがなかなか油が抜けなかった。それでも干しておくと何とか羽織れるようになったので、彼はそれを持って彼の家族が避難する土地金武村の中川集落へ出発していった。終戦後彼の家族と石川の収容所で再び会う事になるが・・・・。

対馬丸
(写真 鳥飼行博研究室HPより 【昭和20年8月22日 米潜水艦攻撃により沈んだ対馬丸】)

(4) 昭和19年10月10日の空襲

 

 その日は晴れ渡っていた、私たちは弁当のおかずにする油味噌を作っていたが、上空で物凄い飛行機の爆音がするので、外に出てみると、沢山の飛行機が上空を飛んで読谷飛行場に向かって急降下し爆弾を落としていた。単なる演習かと思って屋根の上に上って見ていたら、飛行場の方向から黒煙が舞いあがった。何となく様子がおかしい。暫らく見ていたら兵隊が「空襲だ、非難しろ」と走り回っていた。あわてて裏の防空壕に避難した。
その日は一日中空襲が続いたが、近くの簡易桟橋が攻撃されたぐらいで幸い山田の集落には被害はなかった。山田城址の横穴にある機関銃が何回か火を吹いたが、敵機に当たったかどうか・・・後で兵隊が来て三機か四機打ち落としたと言っていたが?
 夜中に飛行場から父が帰ってきたので、色々聞いてみた。朝出勤し点呼を取っている時敵機が襲ってきたらしい。読谷飛行場はその日でかなりの被害があり、当分使いもんにならないともらしていた。父の自転車はペダルが折れていた。しかし、その翌日か二日後だったと思うがたくさんの日本の爆撃機が、読谷飛行場に飛んできた。こんなに沢山の飛行機、空襲中は何所にいたのだろう。敵機と戦ってくれれば良かったのに。子どもながら疑問に思った。
 ある日草刈りで旧アシビナー(ヌンドゥンチの裏側)の松林から友達二三人と海を眺めていたら、小型船が比屋根崎の簡易桟橋から出航していくのが見えた。それは山田、仲泊の男女青年団が徹夜で防空壕の枠木を積み込んだ船で、島尻を目指していた。そこへB24が現れ爆撃を始めた。ちょうどその時近くを日本のゼロ戦が二機通りかかった。我々は「しめた、やるぞ、B24を撃ち落とすぞ」と思いきや、船を攻撃しているB24の横を通り過ぎていった。知らん振りして・・・・情けない!船は撃沈された。

十・十空襲
   (写真 水の江拓治沖縄戦場HPより空襲後の那覇市)



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