戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー
仲本實先生のオーラルヒストリー

7. 家族は難民収容所へ

(1) 従兄と私が捕まる

 ある日、木に登って見張りをしていたら、米兵が来るのが見えた。二人は早速避難小屋へ駆け込み米兵の来るのを知らせた。皆は我先に逃げていったがある老婆が二人の腕を掴んで「君たちは子どもだから大丈夫、釜の火を見ていなさい」と言い残し老婆は逃げていった。「私たちは年寄りだから何時死んでも構わないが、子どもたちは宝だ。子どもたちから早く逃がすようにしなさい」この老婆は普段口癖のようにみんなに言っていた。仕方なく火の番をしていたら、米兵が現れた。米兵は皆が逃げたのを知って、二人だけを連れだした。多分収容所かどこかに連れて行くつもりだったのだろう。従兄は気転を利かせ、逃げ出す心算で米兵に避難小屋にご飯と着替えを取りに行かせてくれとジェスチャーで頼み込んだが、米兵も流石に考えたと見え「従兄一人で行きなさい。」と私を人質に取るような仕草をしたので、従兄は仕方なく本当に二人のご飯と着替えだけを取ってきた。
 従兄は以前に米兵に捕まり石川へ連れて行かれ、そこから山へ逃げ帰った事があり、石川の状況をよく知っていた。それでどうしても石川へいきたくなかったのである。
しばらく歩いていたがある草原で休憩をした。従兄は、米兵の持っていた本の中のABCの文字を見つけ「ABC」と言った。米兵の態度が一変した。多分算数の時間に習った三角形の頂点か何かの本でABCの事を覚えていたのであろう。米兵は何回も言わせDから後も教えようとするが読めるはずが無い。そんな時、別の部隊かららしい無線が入った。暫らく話していたが、しまいに我々二人の話になったらしく笑いながら二人に「トージョーイッセー」と無線機のマイクに向かって言えという。私が「トージョーイッセー」と大きな声で言ってやったら、物凄く喜んで何回も言わされた。次に「ヒロヒトデンプー」と言えという、それも大きな声で何回も言ってやったら大笑いをしてすっかり打ち解けたような気がした。大人になってから知った事であるが、当時の東條首相と天皇陛下の悪口だったようだ。
 暫らくして県道沿いの焼け残った家(タコーグヮー)に連れて行かれた。そこには大勢の避難民が集められていた。やはりここから収容所に連れていくらしい。
従兄はそこでも気転を利かせた。僕に向かって胸の辺りで人差し指を天井に向けて目で合図をした。天井を見たら角の所に四角い穴が開いていた。従兄はそこに上ろうと言うことらしい。二人は荷物を床下 に足で押し込んで隠し天井に登った。
 暫らくすると、下の人々はトラックに乗せられて何処かへ連れて行かれた。二人は助かったと安堵したが、下には未だ米兵が居る気配がするし動きが取れない。5~6時間も経ったであろうか私は小便がしたくなった。下に降りるわけにもいかないので、仕方なく天井の中で少しずつ出し始めたが、これだけは一度出し始めたら簡単に止まるものではない。膀胱がパンパンであった。天井の中を這いずり回りながら少しずつ出し大変苦労してやっと終わる事が出来た。本当に冷や汗ものであった。
 午後の9時ごろだっただろうか、下の物音がしなくなったので、天井を降りて山の避難小屋へ帰っていった。そしたらどうだろう、避難小屋では赤々と火をともし楽しそうに談笑しながら夕食を楽しんでいるではないか。二人は命がけで逃げてきたのに・・・・二人はかんかんに怒り出し(特に従兄)、「明日からは見張りに行かない」と宣言し、昼は自分たちだけもっと深い山奥へ隠れるようになった。

(2)家族との別れ

その日から4~5日経つとみんな米兵に見つかって収容所に連れて行かれることになった。母は乳飲み子を含め子ども4人と祖母(姑)を連れているので仕方なくみんなと行動を共にしたが、ヌンドゥンチの祖母(ンメー)は孫二人を山に残して収容所に行くのは忍びないと、途中米兵の隙を見て逃げだし、山中に居る私達二人を大きな声で呼んでいた。「マチューヨー ミルルーヨー」と。(マチューは従兄ミルルーは私の事)。二人は何事かと出て行ったが、ンメーが言うには「私の親兄弟みんな連れて行かれるが君たちはどうする?」との事。二人は山に残ると言い張ったのでお婆ちゃんも諦めて自分も残る事に決めた。しかし、心細くなった私たちは、米兵に見つからないように途中まで家族を見に出て行った。しかし、家族には逢えなかった。
 そんな時、空では空中戦が行われていた。四機のグラマンが一機のゼロ戦を攻撃していたが、暫らくしてゼロ戦は火を吹きながら木の葉のようにひらりひらりと墜ちていった。そのとき初めて空中戦を見たがとても残念だった。

8. 山中での暮らし 

(1) 山に残った人々

 従兄は当時タバコを吸っていた。それで夕方になると村へ下りて、アメリカ兵の捨てた吸殻や食べ残したお菓子缶詰等を探しに出歩いた。その為何回かアメリカ兵に見つかりそうになったり、捕まったりした。見つかると、タバコを貰ったりマッチをねだったりした。山の中ではマッチは非常に貴重品で避難小屋に帰ると、自慢しながらお婆ちゃんに渡したものである。お陰で我々の所は火をおこすのに不自由する事は無かった。近くに隠れていた別のグループはマッチが無く、毎晩のように暗い山道を火種を貰いに来ていた。怖いので小学5年生の男の子を先頭におばさんたちがぞろぞろ付いてくるのである。マッチの有難さをつくづく感じたもので私はなかなか鼻が高かった。

(2) 兵隊や防衛隊から帰って来た若者たち

 その頃、国頭方面や中部方面から防衛隊や軍隊からはぐれた若者が自分たちの集落を目指して集まってきたが、自分の家に帰る訳にいかないので、仕方なく我々のところに来て生活を共にしていた。しかし彼らは米兵に見つかると確実に殺されるので、昼間は我々とは別行動をし、一番安全だと思われる処に隠れた。でも夜は一緒に食事をしたり談笑したりで我々に色々と戦争の状況などを話して聞かせた。彼らは経験から色々な係りを決め、てきぱきと行動していた。すごく逞しく感じたものである。

(3) 吸殻探し

 従兄は当時タバコを吸っていた。それで夕方になると村へ下りて、アメリカ兵の捨てた吸殻や食べ残したお菓子缶詰等を探しに出歩いた。その為何回かアメリカ兵に見つかりそうになったり、捕まったりした。見つかると、タバコを貰ったりマッチをねだったりした。山の中ではマッチは非常に貴重品で避難小屋に帰ると、自慢しながらお婆ちゃんに渡したものである。お陰で我々の所は火をおこすのに不自由する事は無かった。近くに隠れていた別のグループはマッチが無く、毎晩のように暗い山道を火種を貰いに来ていた。怖いので小学5年生の男の子を先頭におばさんたちがぞろぞろ付いてくるのである。マッチの有難さをつくづく感じたもので私はなかなか鼻が高かった。



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