戦中・戦後の子どもの視点からのオーラルヒストリー 仲本實氏
4.再び山田国民学校へ (3)対馬丸が沈んだ噂
- 仲本先生
- ところが、いっぱいオイルが付いている。ところが、何とかしようやということでね、川に持っていって、うんとたたいたりなんかしてね、あの、するんだが、なかなかやれないんで、何日かも何日もやって、こう、やっとね、干したら羽織れるかな、ぐらいになったんで。
- このいとこはね、何かね、やっぱり兄貴を思い出したんじゃないのかな。これを大事に持って行ったんですけれども。まあ、私のうちから、要するにヌンドゥンチ(祝女殿内)に長いことおること、ことはいけないので、金武かどっかに、中川かどっかに行ったと思います。まあ、そこに行ったんですが。
- えー、この対馬丸をね、調べてみますとね、あの、結局、那覇の、小学校、国民学校の生徒なんですね。那覇、一帯のね。そして国頭とね、島尻は、また別の船だったらしい。で、その那覇の船が、その対馬丸だったらしいですね。そこに約800名ぐらい乗ったって。800名の学童が乗って、まあ全体では1,500、1,600名乗ったみたいですが、800名の学童が残って、あん、乗って。
- その中でね、生きたのがね、59名だそうです。生きて、生きた学童さんがね。で、その中に二人、僕の同級生がいるんです。高校時代の。女の子ですが。男の子は死んだんですが、女の子はやっぱり生きてるんですね。ええ。あの、無理しないんですよ。泳げないから、その、いかだがあるといかだにつかまったりしてね。その女の子二人、生きておったんですが。
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まあ、私も行かんでよかったなといって、あの、胸をなで下ろしたんですが。しかし、うちの父は飛行場に勤めています。軍にいますから、結局沈んだいう、ということは、もうはっきり分かってるけども、まあ当時の秘密だったんでしょう。「うーん、分からない」とかね、「うん、そんなうわさもあるな」とか、それぐらいのことで、はっきりしたことは言わなかったですね。
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