沖縄エイサーの歴史と沖縄の文化 宜保榮治郎氏
10.中国貿易とその影響
- 宜保先生
-
もうおもろ、いわゆる首里王府の初期のころ、第1尚氏、第2尚氏の初期のころは、東南アジアをまたにかけて貿易をしていますからね。そのときに、じゃあどの言葉を使って貿易したかというと、この久米村といって華僑の村があるでしょう、そこではやっぱり中国語を使っているわけですから、この連中が通訳となってアンナンとかインドネシアへ行って、向こうの華僑と貿易をするわけですよね、沖縄の言葉は通じませんから。だから、そういうふうにして、この中国の言葉を久米村が使うことによって、今度は沖縄の海外貿易は中国語を使って広まったというふうなことが言われていますよね。
- 聞き手1
-
ああ、そうですか。久米村というのは、今でもそういう歴史的なものは残っておるんですか。
- 宜保先生
-
はい、もう人たちも全部自分の家譜といいますか、系図を持っていて、自分たちはどれの子孫だと。そして中国の何という村に自分たちの種族がいるということは大体はっきりしていますよ。
- 聞き手1
-
そうですか。よくそういうものは残しておられるんですね。
- 宜保先生
-
ええ、もうこれは、あの人たちにすれば一つのステータスの確証ですから、命と同じように大切にしているんですね。結局、その昔、久米村が入ったころからは中国語を中心とした貿易が中心ですから、久米村がずうっとリードしていったわけですけれども、大和の支配が入ってくると、今度は久米村じゃなくて、首里の方に大和文化が入ってきて、薩摩が直接やりますから、首里の方は全部日本語を使う人たちが多くなるんですね。ですから、玉城朝薫とか、そういう久米踊りをつくった人たちは、今度は薩摩とか江戸へ行くときの通訳ですよ。
-
中国に行くときはこの久米村の人たちが、蔡温とか程順則といいまして漢学者がいますけれども、この人たちはまたずうっと中国に留学して中国語が達者だったわけですね。ですから、新井白石と会った程順則なんかは現場仕込みの中国語ですから、新井白石と筆談をしながら、新井白石は、想像らしいんだけども、これは何と中国語では発音しているかというのを全部程順則から教わったと。
- 聞き手1
-
そうしますと、ある集落といいますか、地域でそれぞれの文化を持った人がおられて、そして、もとからおられた方と、非常に表現がいいか悪いか知りませんけれども、一つの集合体ができたということですね。そうすると、そこで一つの文化が、またいろんな文化が発達したという。そういう点では非常に幅の広い文化というふうな見方をした方がいいわけですかね。
10.中国貿易とその影響 1/2/3 へ
「沖縄修学旅行おぅらい」は、学校教育利用を目的としたデータを使用しています。
利用の際は、文化庁で示されている 「学校教育での自由利用」を守って利用してください。
Copyright(C) 2011 Gifu Women's University. All rights reserved.
|