沖縄エイサーの歴史と沖縄の文化 宜保榮治郎氏
3.袋中上人の布教活動
- 宜保先生
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そうですね、詳しくはわかりませんが、ただ、今の那覇は、沖縄本島がこうありますと、離れ島なんですよ、昔は。そして、ここの間を浅瀬を利用してこういうふうにやったわけですね。そして、現在の那覇市というのはこれを全部埋めてしまって、昔の那覇市というのはこういうふうで、今の袋中寺はこちらの方にありまして、こうなっているわけですね。そうすると、桂林寺がここにありますから、このあたり全体が袋中上人の布教の場所だったというふうに感じられますね。
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そしてもう一つは、この袋中上人が徳が高いもんですから、わずか3年の間に琉球王がこの人に非常に帰依しまして、もう先生を非常に大切にするということで、沖縄のいわゆる豪族の一人で儀間眞常というのがいまして、この人がここに住んでおられるわけなんです。儀間眞常に先生を大切にしなさいというふうにはっきり指示なさって、それで儀間眞常は、今で言うと商工大臣みたいな人だったんでしょうね。
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それでこの人が桂林寺を王様のあれによってつくって、このあたり全部念仏宗のあれですね。やっぱりまだ学者たちもそう思っているんですが、その尻のここの方に、遊芸人の、安仁屋村といって、いわゆる人形操り、傀儡子の集団がおりまして、この連中がエイサーを吸収して島中に広げているもんですから、もうみんな、エイサーを広めたのは傀儡子だと言いますけれども、実は違うんですよ。
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結局、この桂林寺の方、このあたりにしっかり根づいていましてね、そしてこれを、ここのエイサーを傀儡子たちは自分の芸として吸収して演じていたわけで、この人たちが広めた事実はなかなかないです。
- 聞き手1
- ああ、そうですか。儀間眞常さんというのは、ある意味では非常に大きな働きをされた、この念仏踊りとしてのこともさることながら。
- 宜保先生
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この人は、産業のものすごい普及者で、沖縄の砂糖の製造法をしっかり整理した人なんですね。それから、芋なんかも広げるのに大変功績のあったような人ですから、そういうことで、この人がこの袋中上人を守り立てて、一種の庇護でしょうね、バックアップして、世話をしていたんでしょうね。
- 聞き手1
- そうするとやっぱり、今の王様、王府の方と儀間眞常さんというのを一つのバックボーンにした形で、そこに袋中上人が位置づけられているという、それが基本的にお広げになったという形で。今のいろんな中には、今現在、見させていただいてもいろんな踊りが入っていますね。以外のいろんなものが入っていますけれども、そういうものはやっぱり副産物的な形で。
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