沖縄修学旅行おぅらいデジタル・アーカイブ
沖縄の世界遺産

首里城の復元と沖縄の文化
高良倉吉氏

2.王国の拠点としての首里城と
その変遷


首里城の復元と沖縄の文化
高良倉吉氏

2.王国の拠点としての首里城とその変遷
(3)第二次世界大戦と首里城

そして、やがて心ある人たちによって、それはよくないと。これは琉球の歴史や文化のとても大事な遺産じゃないかといって、そこに奔走した人間は地元の人ではありません。当時、東京大学の建築の先生であった伊東忠太という方と、いまの四国の香川県出身の鎌倉芳太郎というお二方が中心になって動いて、とにかく首里城をこれ以上壊さないでおこうといって、東京を駆け巡って予算を取ってきて、首里城の解体修理をします。昭和の初めです。
そして首里城が国宝文化財に指定されて、のちのち琉球の歴史や文化遺産として後世に伝えられるはずだったのですが、太平洋戦争末期の沖縄戦によって、アメリカの集中砲火を受けます。空から海から。そのときの写真と映像がアメリカ軍によって記録されています。それを収集して、われわれも見ましたけれども、首里城が炎を上げて燃えている。
アメリカ軍は面白いですね。情報収集のために偵察機を飛ばしていまして、上空から空撮をしているのです。その写真がアメリカに残っていまして、その3日後に首里城は跡形もないという写真があります。
なぜ、そんなことをアメリカ軍はしたのか。首里城が憎かったというわけではありません。当時、沖縄を守っていた日本軍は第32軍という軍隊ですが、太平洋戦争も終わりのころですから、日米の軍事力の差は圧倒的に日本が不利な状態になっています。
そこで、その軍隊がどういうことを考えたかというと、アメリカ軍を中心とする連合軍が日本の本土に上陸作戦を展開するという、その時間をできるだけ遅らせようと。そのためには、沖縄でアメリカ軍をできるだけ引き付けておいて、時間稼ぎをしなければならないということだったようです。当時の大本営の資料を読むと、作戦はそうです。沖縄で時間を稼ぐと。そのために首里城の地下に防空壕を掘って、当時の第32軍という沖縄守備軍の司令部を置いたのです。
アメリカは偵察機を飛ばして情報収集をしていますから、当然それは把握されている。つまりアメリカ軍は、首里城を壊すために空と海から集中砲火を浴びせたのではなくて、地下にある日本軍の司令部をたたくという軍事作戦に出たわけですね。それで結果としては、地上にある首里城が跡形もなく、完膚なきまでに破壊されたという状況であったわけです。
その戦争が終わって、皆さんご存じのように沖縄はアメリカ軍に占領されて、47都道府県から沖縄県のみを分割して、アメリカの直接統治、支配という体制に置かれます。
アメリカは冷戦がやがて始まりますので、世界に大きな軍事拠点を建設する必要があったわけですが、それに適していたのが沖縄だったわけですから、使い勝手がいいように日本の施政権から分離して、アメリカが直接に沖縄を支配するという体制が誕生します。まさに基地建設のために、あるいは軍事的な、戦略的な目的のために、沖縄県の島々を利用するというか、活用するということになりました。
そのアメリカ統治の中で、私が勤めております琉球大学という大学が、1950年、終戦の5年後に首里城の跡に建設される。キャンパスになっていくのですね。そこでさまざまな人材が育っていくわけでありますけれども、やがて沖縄の人たちはアメリカ統治の中から、自分たちの祖国は日本だという声が高まって、日本に復帰しなければならないという運動が高まり、やがてアメリカ統治時代が終わります。しかし、基地を残したままで沖縄が日本に返還されるという、これが1972(昭和47)年のことです。
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【参考資料】

「沖縄の世界遺産」

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