沖縄修学旅行おぅらいデジタル・アーカイブ
沖縄の世界遺産

首里城の復元と沖縄の文化
高良倉吉氏

2.王国の拠点としての首里城と
その変遷


首里城の復元と沖縄の文化
高良倉吉氏

2.王国の拠点としての首里城とその変遷
(1)琉球王国の終わり

2ページのメモの1879(明治12)年のところに、琉球処分と書いて沖縄県設置と書いてありますが、実はこの年に首里城の役割が終わります。
どのように終わったかというと、この少し前に、日本では明治維新によって徳川幕府が倒れて、日本は新しい近代国家としてスタートします。南のほうの琉球王国をどうするか、当時明治政府の首脳は議論しておりまして、その議論の模様が東京の外務省の外交史料館に残っています。それを見ましたけれども、いろいろな議論をしていますが、最終的には琉球王国を廃止して、そこに沖縄県を置いて、正式に日本の領土に編入するという結論に達します。
しかし、琉球側はなかなか言うことを聞かない。実は大変にすったもんだのことが起こるのですけれども、当時の中国がクレームをつけるのです。中国と日本はやがて戦争になりかねないというぐらいまで、琉球問題でもめることが起こりますけれども、最終的には明治政府、当時の日本の近代政府はどうしたかというと、日本の本土から軍隊と警察を動員しまして、首里城を取り囲んで、強圧的に首里城の明け渡しを命じるわけです。これが明治12(1879)年の春の出来事でした。
当時の王様が、家来とともに首里城を出るわけです。その当時の状況が、明治政府側の記録に残っております。城を出た王様が、どんな思いを抱いていたのかということを伝える記録はありませんけれども、さまざまな断片的な記録を突き合わせてみますと、本当にみんなうなだれて、もう琉球という時代は終わったのだと、深刻な顔をして城を出ていったと。その瞬間に、明治政府は首里城を封印します。門にすべて兵士を立てて、当時の琉球の人間が首里城に出入りできないようなかたちにするのです。
そうやって琉球王国は滅んで、その司令塔であった、アジアとの交流事業の中心でもあった首里城の役割が終わります。
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【参考資料】

「沖縄の世界遺産」

※資料随時追加予定