首里城の復元と沖縄の文化 高良倉吉氏
2.王国の拠点としての首里城とその変遷 (2)首里城のその後
- それ以降の首里城はどうなったかというと、1枚目に書いてありますが、そのまま軍隊が駐屯しました。
- 当時、日本という国は新しい軍事制度をつくるのですが、全国をいくつかのブロックに分けるのですね。九州・沖縄地区のブロックの拠点は熊本にありました。西南方面の軍隊の拠点が熊本だったのですが、熊本鎮台といった軍隊。その分遣隊という一部隊が首里城に駐屯します。首里城は琉球王国の司令塔、アジアとの交流の中心的な場所という時代が終わって、軍隊の駐屯所になるという、まったく予想もしない歴史の展開になっていく。
- 首里城の施設は、当然軍隊が使い勝手がいいように建物を壊したり、窓のないところに窓を付けたりしますので、その間に首里城がかなり改変されます。一部破壊もされております。
- この破壊の実態はどうであったか。後で触れますが、私は首里城の復元にメンバーとして深くかかわったのですけれども、首里城を知るためには、首里城に駐屯した軍隊がどの程度首里城をいじったのか、破壊したのか、形を変えたのかという情報が必要です。
- そこで熊本に行きまして、現在は自衛隊の大きな基地が熊本にありますけれども、そこには何の資料もなかった。向こうの人に聞いたら、東京にあるんじゃないですかというので、いろいろ情報収集しましたら、東京に恵比寿という場所があって、そこに実は防衛研究所というのがあります。いまの防衛省ですね。そこの図書館には、日本の近代の軍事に関する資料が全部集められていて、何度もそこに通ってやっと見つけ出しました。首里城に駐屯している軍隊の記録を見つけたのです。そして、彼らがいったいどのように首里城を使ったのかということを分析したわけです。どのように壊したのか、どのようにいじったのか。
- 例えば、ちょっと驚くべき話ですけれども、かつて首里城の中で最も聖なる建物があった。その聖なる建物を、首里城に駐屯していた軍隊の診察室に使っているのですね。そういうことが分かりまして、つまり、壊して形を変えて使ったという資料を分析すれば、壊される前の首里城が分かるわけです。そういう作業をしたということです。
- それから、やがて軍隊は引き揚げます。明治29年でしたか、引き揚げるのですけれども、その後は首里城を地元沖縄の人たちがいろいろな学校に転用します。その中で、学校に使うために、壁だったところを開けて、壊してそこに窓をつくるとか、そういう学校に使われることによって、また首里城が壊されたり、形が変えられたりするということが起こります。これは地元の人たちがそういうことをしたわけですね。
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