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美濃焼の歴史 |
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窯(かま)を使った焼き物が、今から1600年前(古墳時代)に朝鮮半島から伝わりました。
このときの焼き物は、須恵器(すえき)という器(うつわ)でした。窯は、窖窯(あながま)という地中にトンネルを掘った形のものでした。 |
『焼き物が朝鮮半島から伝わってきたので、朝鮮や中国の文明は、当時の日本よりかなり進んでいたのだなと思いました。』 |
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東濃地方に焼き物が伝わったのは、それから300年後の今から1300年前(古墳時代)で、やはり窖窯で須恵器を焼いていました。
東濃地方でこの当時の窯跡が見つかったのは、10基ほどで、役人や寺、神社、豪族(ごうぞく)が、焼かれた須恵器を使っていたようです。 |
『300年もかかって東濃地方で焼き物が焼かれるようになったので、びっくしりしました。』 |
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およそ1150年前(平安時代)になると、須恵器から白瓷(しらし)という灰をもとにした釉薬(ゆうやく)をぬった焼き物に変わりました。この白瓷の焼き物は、中国の焼き物のまねをし、形は今の茶碗や皿に似ています。
東濃地方の窖窯の数は100基ほどにもなり、北海道を除くほぼ全国で東濃地方で作られた白瓷の焼き物が売れました。美濃窯(みのよう)はこのときから焼き物の生産地となりました。 |
『1150年前にほぼ全国で美濃窯の焼き物が売れるようになったなんてびっくりしました。美濃窯は1000年以上の歴史があるのだと実感しました。』 |
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およそ800年~450年前(鎌倉時代~室町時代)になると、焼き物の窯の跡が山の頂上の近くになり、現在でもたくさんの茶碗や皿のかけらが発見され「山茶碗=山にある茶碗」と呼ばれていました。このころは、東濃地方には600基ほどの窯があったようです。
この碗は、ほとんど釉薬(ゆうやく)をかけない茶碗で、民衆が使っていたようです。 |
『2年前にお兄ちゃんと松坂町の山茶碗の発掘現場に行ったことを思い出しました。』 |
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およそ500年前ぐらいの室町時代後期になると、武士が互いに力を競い合う乱れた時代(戦国時代)になりました。この頃になると、地下式の窖窯から、地上にでた大窯を使うようになりました。
釉薬には、灰釉(はいゆう、灰から作った釉薬)や鉄釉(てつゆう、茶色)や緑釉(りょくゆう、緑色で高い温度で焼く)などを使うようになりました。 茶碗や皿を多く焼き、鉢や瓶(びん)や壺(つぼ)なども焼き、戦国時代であるのに、危険をおかしてまでも焼き物を全国の武士や館(やかた)や街の人々に売っていたそうです。しかし、このころも、唐物(からもの)という中国の焼き物のまねをしていました。 |
『大釜でたくさんの種類の焼き物を焼けるようになったので、全国にまで危険を冒してでも、売りに回ることができたのだなあと思いました。』 |
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およそ400年前ぐらいの安土・桃山時代になると、外国から新しい文化が伝わり、焼き物の形や色が変わってきました。
「瀬戸黒(せとぐろ、鉄の粉を釉薬にして、焼いている途中で窯から引き出し急に冷やして黒くする)」「黄瀬戸(きせと、黄色になる釉薬をかけて焼く)」「志野(しの、白い釉薬をかけた焼き物)」などの「桃山陶器」が焼かれるようになります。これらの「桃山陶器」も中国の焼き物に少しでも近づこうとした当時の美濃の陶工の努力があったからできあがったものです。 当時は茶道(さどう)がさかんであったので、茶碗や水指(みずさし、水入れのこと)などの道具も焼いていたそうです。焼き物の売り先は、このように全国の殿様や茶道をやる人たちでした。 「瀬戸黒」などの焼き物の名前は、江戸時代以後につけられたそうですが、桃山陶器は現在でも美濃焼の代表的な焼き物となっています。 |
『ぼくの家にも黄瀬戸や志野の湯飲みがありますが、とても優しい色をした湯飲みで、僕も大好きです。』 |
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およそ400年前の江戸時代になってからも、桃山陶器がよく売れるので、陶工たちはもっと大きな窯が欲しいと思っていたそうです。
九州の唐津(からつ、今の佐賀県)にたくさん焼ける窯があると聞いて、早速陶工たちがその窯を元屋敷(もとやしき、土岐市)に取り入れました。 焼く部屋がいくつもつながった長い窯「連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)」を作り上げました。この窯で初めて「織部(おりべ、土や形、絵、釉薬を組み合わせたゆがみのある茶碗や食器)」が焼かれたそうです。 「織部」という言葉が出てくるのは、江戸時代になってから茶の名人・千利休(せんのりきゅう)の後をついだ古田織部正(ふるたおりべのかみ)の好みということで「織部」という名がついたそうです。 焼き物の売り先は、やはり全国の殿様や茶道をやる人たちだったそうです。 |
『新しい焼き物を作ったり、九州まで窯の勉強をしに行くなど、400年前の陶工の人たちが大変苦労をして焼き物を焼いていたことがよく分かりました。』 |
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古田織部正(ふるたおりべのかみ)が亡くなると、次の茶の名人が小堀遠州(こぼりえんしゅう)になりました。遠州は「瀬戸黒」などの桃山陶器を自分の好みからはずしてしましました。すると美濃焼が売れなくなってしまたそうです。
およそ250年前の江戸時代中期になると、一番人口が多い江戸に目をつけるようになり、民衆向けの焼き物を作るようになりました。 美濃焼は、有田焼(ありたやき、九州地方)や備前焼(べぜんやき、中国地方)や京焼き(きょうやき、近畿地方)よりも江戸に近いことを生かし、それらの焼き物に似た器や茶碗をたくさん焼き、注文が多くなりました。これらの焼き物はよく売れたそうです。 |
『他の茶碗の産地よりも江戸に近いと言っても、江戸までお茶碗を売りに行くのは大変だったと思います。お茶碗は、すぐに割れるし、とても重いからです。』 |
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およそ200年前の江戸時代中期末までは、美濃窯の焼き物は、粘土を一種類を使った陶器質(とうきしつ)の物が多かったそうです。
しかし、江戸時代後期の文政の頃には、粘土・長石(ちょうせき)・珪石(けいせき)の種類を混ぜて「磁器(じき)」を造りました。磁器には、白い、硬い、光をとおす、水をあまり吸わないの4つの条件があるそうです。 |
『陶器は厚みがあるけど、磁器はとてもうすくて硬いです。磁器は粘土だけでできていないのだと初めて知りました。』 |
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およそ300年前の江戸時代中期になると、江戸の街は武士や町人などの人口が増え、酒を飲む人も多くなったそうです。すると、美濃窯の徳利(とっくり)の生産が増え始めました。
およそ150年前の江戸時代後期には、江戸の人口はますます増え、徳利の注文が大量にありました。江戸の徳利は美濃焼が独占し、東日本全域に売り先は広がったそうです。 さらにこの頃は、人々の生活に余裕ができ、「植木鉢」や小鳥を飼うためのえさ入れ「餌じょく(えじょく)」など、今までになかった物まで焼くようになったそうです。 |
『今は酒をビンに入れるけど、江戸時代は美濃焼の徳利に酒を入れていたとは知りませんでした。やはり江戸に近いことが重要だと思いました。』 |
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およそ130年前の明治時代になると、磁器の素地に絵を手描きする「染付(そめつけ)」を作る優れた陶工がたくさん出てきたそうです。
さらに赤、黄などの色を使って「上絵(うわえ)」を焼きました。また、絵の具を機械で素地に吹きつけ、さらに筆で絵を描く「下絵(したえ)」もするようになったそうです。 このような焼き物は、造りも絵付けも優れており、外国に輸出もしていたそうです。 |
『江戸時代には民衆向けの焼き物が多かったけど、明治時代からは手が込んだ芸術的な焼き物が焼かれるようになってきたと思いました。』 |
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それまでは、「黄瀬戸」や「瀬戸黒」などの「桃山陶器」は、瀬戸市で焼かれていた物だと思われていました。しかし、昭和5年(およそ75年前)に荒川豊蔵さん(人間国宝)が、志野筍絵向付(しの
たけのこえ
むこうづけ)を名古屋で見て、これは美濃窯(みのよう)で焼かれた物だと考え、大萱(おおがや、可児市)の山中で、これと同じ陶片を発見しました。
このことは、「桃山陶器」が美濃で焼かれていたことをあらわしています。これ以後、美濃窯で「瀬戸黒」「黄瀬戸」「志野」を焼いた大窯(おおがま)が次々に発見され、「桃山陶器」は、美濃窯で焼かれていたと言われるようになったそうです。 |
『少しでも中国の焼き物に近づきたかった陶工たちが、いたからこそ桃山時代に美濃焼が大きく発展したのだと感じました。荒川豊蔵さんの発見がなかったら、今のように美濃焼は栄えていなかったと思うので、すごい発見だったと思います。』 |
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現代の焼き物は、「織部」や「黄瀬戸」などの桃山陶器を再現したり、タイルや、ニューセラミックスなどの開発も進んでいるそうです。
現在では、全国一の生産高と売上高をあげ、焼き物の一大生産地となっています。洋食器は国内生産の約51%、和食器は約58%、タイルは約41%を占めているそうです。 |
『毎日使っている食器の過半数が、ここ東濃地方で作られたものだとはびっくりしました。』 |