豊蔵資料館

 

 荒川豊蔵さんは、昭和5年の春に、大萱(おおがや)牟田洞(むたぼら)で、桃山時代に志野などを焼いた窯を発見し、昭和8年からここに移り住んで陶器づくりを始めたそうです。

 この発見により、瀬戸黒や黄瀬戸、志野などが美濃で焼かれていたことがはっきりしました。

 桃山時代までの日本の陶器は、中国や朝鮮のまねをしているだけでした。それが、大萱の窯で焼かれた陶器は、形などこれまでとは大きく違う物でした。

 豊蔵資料館には、残念ながらこの志野の陶片は名古屋の博物館へ貸していてありませんでした。その次にはアメリカの博物館へ貸すので、来年の春までもどってこないそうです。

 資料館のおじさん(豊蔵さんのお弟子さん)が、志野や黄瀬戸のよい作品とそうでない作品の見分け方や、どうやって豊蔵さんが志野の陶片を発見したのかを説明してくれました。豊蔵資料館には、ほかにも志野や黄瀬戸、瀬戸黒の陶片がありました。

 この陶片も素晴らしい作品ですが、小さな窯でたくさんの陶器を重ねて窯に入れるので、陶器がくっつくことがあるそうです。せっかく素晴らしい作品でも(国宝級)、これでは売り物にならなかったので、今から400年前の美濃の陶工たちはそれらの陶器も窯の近くに捨てていたそうです。 

 この山の中に、まだ陶片が落ちているのかもしれません。