(1770-1850) Cockermouth の弁護士の次男。「湖水地方」の美しい自然に親しみながら少年期を過ごした。Chamblidge(1787-91)を卒業後、革命下のフランスにわたり、革命思想の洗礼を受けるとともにAnnette Vallon というフランス娘と恋愛し、一女をもうけるにいたった(1791-92)。帰国後しばらく精神的昏迷に陥ったが、1795年妹DorothyとRacedownに住み、青年哲学者Coleridge と知り合うに及んで詩人として立ち直った。1797年Alfoxden に移り、Coleridge との合作詩集Lyrical Ballads を計画、翌年出版した。1798-9年 Dorothy とともにドイツのGoslar に滞在。1802年 Mary Huchinson と結婚。1805年長編自叙伝詩 The Prelude を脱稿したが死ぬまで出版しなかった。1813年以降 Rydal Mount に永住、印紙販売員の職についた。1814年 The Excursion 出版。以後しだいに退屈な詩を書くようになったが、名声はかえってあがり、1843年には桂冠詩人に任ぜられた。(以上参照:『ロマン派詩選』上島建吉注釈、研究社) |
<ワーズワースの生涯> ワーズワースの生涯は社会の変動に大きく影響を受けた。彼はフランス、ドイツ、スコットランド等、 ヨーロッパを旅行して周り、社会の変動の中心に身を置く事を好んだ。そのため彼の作品の 多くには社会の変動に戸惑う心が表れている。また彼は自然を愛し、自然の中で生活することも 好んだ。彼の作品には自然を題材としたものが多くある。 1770年4月7日、スコットランドに境を接する、カンバーランドのコカマスで、弁護士である父ジョンと 母アンの間に、五人兄弟の二男として生まれた。彼が8歳の時、母親が亡くなってからは家を移り、 下宿をしてグラマースクールに通った。ここでの彼の学校は自然の中にあり、野山で遊ぶ楽しさを 知った。在学中、彼は課題で二度ばかり詩を書いたが、それは18世紀詩人ポウプの模倣であった。 この後、彼は自ら詩を創作するようになる。こうして9歳から17歳までの9年間、田舎の学校生活を 送った。この間、彼の父親が1783年12月、彼が13歳の時に死亡している。 両親の死後は父方の叔父と母方の伯父が後見人となり、やがてケンブリッジ大学に入学して セント・ジョンズ学寮に移った。しかしそれまでホークスヘッドの田舎で暮らしていた彼にとって、 ケンブリッジの町は異様に映り、居心地の良くないものであったようだ。次第に憂愁に心を奪われ、 暗さを求めるようになる。彼はここでの生活を9年間続けたが、その間、数多くの旅行を楽しんだ。 休暇には妹ドロシーを訪ね、大学生活最後の休みであった1790年の夏休みには、友人のロバート ・ジョーンズと三ヶ月にわたって大陸旅行を行った。1791年1月にケンブリッジ大学を卒業。 1791年にフランスを訪れた際、4歳年上のマリー・アン・バロン(Marie Anne Vallon)と恋に落ち、 彼女との間に女児が生まれた。しかし妻と娘を残し、彼はイギリスに帰国。その帰途で革命の 華々しい進行に革命に対する同情の高潮を感じ、社会・人間への関心を強めたといわれている。 グラースミアに帰った彼は、幼馴染のマリー・ハッチンソン(Mary Hutchinson)に心惹かれ、 フランスに残してきたアンとは離別した。 1793年、「風景小品集(Descriptive Shetches)」を出版。この後1793年9月から1794年7月までが 恐怖時代の始まりであり、彼の心は恐怖時代の闇が占領していた。また哲学ブームで、この時代の 文学作品には思想の抽象化が求められた。しかし彼は直接見聞きしたフランス人の革命に対する 情熱や、自分の持つ感覚の創造作用が邪魔をして、思想の抽象的な表現方法に批判を持つ。 その考えは彼の作品にも影響し、1793年にロンドンで出版された詩集「夕暮れの散歩(An Evening Walk)」「風景小品集(Descriptive Shetches)」の世評はあまり良いものではなかった。この世評に 彼は心に大きなダメージを受けた。 妹であるドロシーは献身的にワーズワスに尽くした。彼女は生活・行動の多くをワーズワスと 共にした。彼女の日記にはワーズワスとの事が書かれており、現代のワーズワス研究の多くは ドロシーの日記から分かったことである。また、ワーズワスの作品は回想された経験から成り立ち、 体験と執筆との時間の差が長くあることが特徴であるが、この事実も彼の作品とドロシィの日記を 比較して明らかになったことである。 1795年、彼はブリストルで初めてコールリッジと出会う。この後2人は1810年に仲違いするまで、 互いの理解者であった。 この年、友人であるカルバートの弟が亡くなり、彼がワーズワースの ファンであったため、ワーズワースに900ポンドの遺産が残された。その後ワーズワースはロンドンの 都会の中から自然の中にあるレイズダウンに移り、妹と共同生活を始める。 1797年、妹と共にコールリッジの家の近くの町に住み始め、「抒情小曲集(Lyrical Ballad)」を出版。 しかしこの頃イギリスは近代的生産工業国といわれ産業革命の真っ只中にあり、彼の作品が自然を 好んだため、出版してもイギリス社会の人々には受け入れられなかった。 1802年にはマリーと結婚しダヴ・コティジに住み始め、5人の子どもの父親になった。しかし1812年、 2人の子どもを続けて亡くす。 1809年、コールリッジが新たな雑誌"The Friend"を手掛けた翌年に、 コールリッジと不仲になる。翌々年には和解が成立するが、二人の仲は以前のようにまでは 戻らなかった。 1813年、ライダル・マウントに居を移し、死ぬまでここで家族と生活する。1814年には15年余りを かけて手掛けた長詩「逍遙篇(The Excursion)」が出版されたが、詩人としての収入だけで家族を 養うのは困難と感じた彼は、収入印紙を売る職に就く。 1839年にはオックスフォード大学からD・C・L(Doctor of Civil Law)の名誉学位を送られ、アメリカに おいても彼の人気は一般的なものとなった。1843年には桂冠詩人の栄職が与えられた。この頃から 過去の作品の改訂を行い、1836年には全作品の改訂を終えた。 その後、1847年に娘ドロシーが亡くなり、後を追うようにして彼は80年で生涯を終えた。 1850年4月23日正午前のことであった。彼はグラースミアの教会墓地に葬られた。 |
<<Edited by Kamiya |
このページのトップへ |