(1819-92)
ニューヨーク市郊外に百姓兼大工の子として生まれ、早くから労働に従事、やがて政治ジャーナリズムで活躍したが、しだいに政党活動に幻滅、アメリカおよび人間のあるべき姿を破天荒な自由詩型で宣揚する詩集 Leaves of Grass を出版した。世間の理解は容易に得られなかったが、下級官吏などをしながらその増補改定に生涯をかけ、文字通りアメリカを代表する詩人となった。
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<ホイットマンの生涯>

 ニューヨーク州ロングアイランドに生まれる。父親は大工と農業を兼業していたが、彼が4歳のとき、
仕事を求めてブルックリンに移り住んだ。1830年、11歳で働き始め、学校教育は充分に受けて
いなかった。彼はその後見習い職工としてさまざまな印刷所を転々とし、その仕事の中で文字の
読み書きを学んだようだ。
 1836年から38年にかけて小学校の教師を務めたこともあったが、1838年の春からジャーナリストと
しての活動を開始。また、ジャクソニアン・デモクラシーの影響からか、民主党の党員として働いた。
そのうちもっとも長く勤めたのは'Daily Eagle'という民主党の機関紙で、編集長のような仕事を
任された。
 しかしそのころ盛んになってきた奴隷制度を巡る問題からメキシコ戦争が始まり、それまで彼が
信頼し奉仕してきた民主党そのものが分裂。悩んだ末、彼は新しい領土での奴隷制度採用に
反対するという立場をとった。こうして民主党を追われ、一旦はニューオリンズで新聞記者を
務めたが、三ヶ月でブルックリンに舞い戻り、Free Soil Party(自由土地党)の'Freeman'という新聞を
発行する。この新政党は「自由な土地、自由な言論、自由な国土、自由な人間」をスローガンとした。
しかし選挙で政党が負けると、党員の数が減り、1849年秋ホイットマンも、この仕事をやめざるを
得なくなった。
 1855年の7月、ホイットマンは自ら活字を組み、詩集『草の葉(Lieves of Grass)』を出版。この作品は
世間の注目を浴びたが、その大半は非難や批判だった。しかし詩人R.W.Emersonは高く評価し、
ホイットマンに賞讃の手紙を送っている。またエマソン(Emerson)を通して、ソロー(H.D.Thoreau)や
オルコット(A.B.Alcott)などのトランセンデンタリストも彼に関心をもつようになった。
 それから1856年、60年に『草の葉』の第二版、第三版が出版されたが、1861年、南北戦争が
始まったことから、自由を讃え理想に近づこうとするホイットマンを苦悩させる。この戦争で出征中の
弟が負傷し、彼は看護人として弟に付き添った。
 南北戦争が終わった1865年、内務省のインディアン局に職を得るが、彼の詩集が上司の目に
止まり、非道徳な詩集を書いたとして免職にされる。すぐに別の局で地位を得、生活は安定したが、
一方で彼の書いた詩は、少数ではあるが熱心な賛美者を得るようになっていた。
 1871年『民主的展望(Democratic Vistas)』という評論を発表。堕落したデモクラシーの現状を
痛烈に批判。1874年以後、中風のために政府の職を辞してニュージャージー州キャムデンに隠棲し、
1882年、半自伝的随筆集『見本の日々(Specimen Days)』を出版。
 1892年、72歳でこの世を去った。

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