(1809-49) 旅役者の子としてボストンに生まれたが、孤児となり、ヴァージニア州の貿易商に養われた。その養父と衝突して、詩人を志し、第3詩集 Poems (1831)で幽美な詩風を打ち立てた。しかし世間の評価は限られ、リッチモンド、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨークなどに移り住み、雑誌編集、文芸評論、短編小説などの各分野で鬼才を発揮しながら、貧しい売文の徒として生きた。 |
<ポーの生涯> 1809年、ボストンに生まれる。父親はボルティモア出身の旅役者であり、母親はイギリス生まれの 女優だったが、ポーが生まれた翌年、父親が妻子を捨てて失踪してしまう。母子はヴァージニア州 州都リッチモンドに移ったが、1811年に母親が病死。孤児になった彼は煙草商人ジョン・アランに 引き取られた。 少年時代は、養父母とともにヨーロッパに渡り、ロンドンで教育を受けた。帰国後の1826年、 ヴァージニア大学に入学。ところが詩人を志していた彼は、商売を学ばせようとした養父と対立した。 また、ギャンブルにふけるようになり、1年のうちに2500ドルの借金をつくった。 養父は彼を退学させ、法律を学ぶようすすめたが、彼はボストンに出奔し、そこで自らの詩集 『タマレーン、その他の詩集("Tamerlane and Other Poems")』を自費出版した。1827年、18歳の ときである。しかし彼の詩は全く評価されず、彼は生活のために軍隊に入った。軍隊では特務曹長を 務めるまでになり、1829年除隊。その後養母の計らいでウエスト・ポントの陸軍士官学校に入学した。 この間に第二詩集『アル・アーラーフ、タマレーン、および短編詩集("Al Aaraaf, Thamerlane, and Minor Poems")』を出版。しかしここでも規則を破り、退学処分となる。 その後も彼はニューヨークに出て詩集を発表するが、いよいよ生活に窮し、ボルティモアの父方の 叔母の家に身を寄せる。彼は小説によって身を立てようと試みたが、1835年、懸賞小説の選者で あったJ.P.Kennedyがその才能を見込んで、リッチモンドの文芸雑誌『南部文芸通信』の編集長に 彼を推薦し、彼は編集者として活躍する。が、経営者と対立して、37年に免職。その後は依拠を 転々としてさまざまな定期刊行物の編集をしながら小説を書いた。 1836年、13歳の従妹ヴァージニアと結婚し、1839年、短編集を出版。1845年には長詩『大鴉 ("The Raven")』が好評となり、ようやく詩人として認められるようになったが、生活は依然として 苦しかった。1847年、妻ヴァージニアが肺結核で死亡。 1849年の夏、セアラ・ロイスター・シェルトンと婚約したが、義母を結婚式に招くため、ニューヨークに 引き返す途中、ボルティモアで争いに巻き込まれ、泥酔して路上に倒れているところを発見され、 そのまま息を引き取った。 |
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