(1795-1821) London の貸馬屋の長男のとして生まれ、Enfield の John Clarke の私塾にしばらく通った(1803-10)。1811年から外科医の助手として勤めるうち、しだいに詩心が高まり、文芸誌 The Examiner に投稿したのがきっかけでその主筆Leigh Hunt に認められ、彼の家に出入りするようになった(1816)。1817年処女詩集出版。翌年野心作 Endymion が出たが、Blackwood's Magazine などに酷評された。さらにこの年の暮、看病していた肺結核の弟 Thomas が死に、Keats にはたび重なる打撃となった。1819年、前年見そめた Fanny Brawne への慕情が募る一方、肺結核の兆候が自分の身にもあらわれはじめたことを知った。その間、彼の最高傑作とも言える "Odes" がつぎつぎと書かれる。1820年医者の宣告を受け、Fanny との結婚を諦めた詩人は、その年の秋、友人一人に付きそわれて淋しく英国を離れ、転地療養のため Itary に向かった。そして翌年2月、Romeでその薄倖の生涯を閉じた。(以上参照:『ロマン派詩選』上島建吉注釈、研究社) |
<キーツの生涯> ロンドンの裕福な貸し馬車屋の長男として生まれるも、父親が落馬事故で死亡した後には 家運は急激に傾き、一時は再婚していた母親もまもなく結核で死亡した。 その後母方の伯母が4人の幼い兄弟を世話したが、彼女が他界すると、子どもたちは完全な 孤児となった。彼は幼い弟たちの面倒を見るため、大学進学を諦めて医学校へ通うが、中退。 その後ロンドン北郊外にあるジョン・クラークの私塾に入り、その息子チャールズの紹介で、 新聞雑誌の編集者リー・ハントと出会う。ハントは彼を励まし、彼のために部屋を提供した。 緑豊かなハムステッドの環境は、キーツの才能を養う重要な素地となった。 交友関係はハントを通してさらに深まり、ハント(L.Hunt)やワーズワース(W.Wordsworth)、ラム (C.Lamb)、シェリー(B.Bailey)などとともに、キーツは本格的な文学生活を送った。1817年には 最初の『詩集("Poems by John Keats")』を出版した。 1818年、スコットランドを旅行したことをきっかけにファニー・ブーロンという女性と知り合い、 翌年婚約を交わす。また同年、彼は4巻4千行にも及ぶ寓意叙事詩『エンディミオン("Endymion")』を 出版したが、この詩は評論誌、雑誌から激しく批判される。気落ちした彼だったが、友人とともに スコットランドと湖沼地方に出かけ、ブリテン島最高峰のベン・ネヴィス(Ben Nevis)山頂に立った。 このときの体験が、彼を精神的に成長させたといわれている。 ロンドンへ戻った彼だったが、まもなく末の弟が結核のため死亡。キーツはミルトン風無韻詩に よる哲学的叙情詩『ハイピリオン』を書き出すが、未完に終わる。さらにこれを改稿し、スタイルを 変えて『ハイピリオンの没落』として新たに書き始めたが、こちらも未完に終わる。 秋ごろからは彼自身にも結核の兆候があらわれ、療養のためイタリアに渡ったが、病状は 好転しなかった。彼はファニーとの結婚を諦める。 1819年、『秋に寄せて(To Autumn)』、『ギリシャの古壺のオード(Ode on a Grecian Urn)』などの 代表的オードが次々と発表された。 1821年、キーツは25歳の若さで死亡、療養先であるローマの共同墓地に葬られた。 |
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