(1772-1834)
Devonshire の小村 Ottery St. Mary の牧師の末子で、生来気まぐれで空想癖が強かった。London の Christ's Hospital を経て Cambridge(1791-95) に学んだが、
その間詩人 Robert Southey らとPantisocracy「権力平等団」という理想社会の建設を夢みたりした。1795年軽率な結婚をし、一生後悔する。翌年 Nether Stowey に住み Wordsworth 兄妹と知り合い、1798年 Lyrical Ballads の出版を見る。The Ancient Mariner, Kubla Khan, Christabel (Part T) の三大幻想詩はすべてこの年に書かれた。その後主として哲学や文学批評に関心を向け、劇作、雑誌の刊行、文学講演など多方面の活動を続けたが、アヘン中毒患者として危うく廃人になるところを医者に助けられたこともあった。文学評論の代表作に Biographia Literaria(1817) がある。(以上参照:『ロマン派詩選』上島建吉注釈、研究社)
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<コールリッジの生涯>

 デヴォンシャーの教区牧師の息子として、3人兄弟の末子に生まれ、極端に甘やかされて育った。
気まぐれで怒りっぽく、空想壁のある少年だったという。
 ロンドンのクライスツ・ホスピタル慈善学校を経てケンブリッジ大学に入学するが、中退。
ロバート・サウジーとともにアメリカでの理想的平等社会(Pantisocracy)建設を夢見たが、挫折。
また、サウジーの義理の妹セアラと結婚するも、のちに負担となる。
 1797年、ワーズワース兄妹と出会い、このことが詩人としての彼の才能を大きく成長させた。
このころ『老水夫の歌(The Ancient Mariner)』『クリスタベル(Christabel)』『クーブラ・カーン
(Kubla Khan)』など数々の傑作が生まれている。また翌年にはワーズワースとの共著である
『叙情民謡集(Lylrcal Ballads)』を発表。99年にはゲッティンゲン大学でドイツ観念論を研究した後、
湖水地方に居を構え、その近くに移り住んだワーズワース兄妹との交流を深めた。
 しかし不安定な生活から身体を壊し、リューマチの治療に使っていた阿片を常用するように
なった。1804年から06年にかけてマルタ島で療養するも、効果はなく帰国し、16年、ギルマン医師の
自宅に引き取られて、亡くなるまで看護を受ける。阿片の常用は、一方ではワーズワースとの
不和を招いた。
 しかし帰英後の彼は1817年、文学評論の代表作となる『文学的自叙伝(Biographia Literaria)』を
発表し、シェイクスピアやミルトンに関する連続講演を行うなど、積極的に活動した。また、政治・
経済・哲学などに対する関心も深まったという。

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