(1788-1824)
北欧系貴族の一人息子で、London に生まれたがすぐ母とともに Scotland の Aberdeen に移り、そこで少年時代を過ごした。父は詩人が3歳のときに異国で死に、彼は10歳にして第6代 Byron卿となった。Harrow 校から Chambridge(1805-8) に学ぶうちしだいに虚無的、ないし悪魔主義的行動に親しむようになった。1809-11年友人と地中海沿岸諸地方を旅行、その体験をもとに Childe Harold's Pilgrimage という叙事詩を書いて出版したところ飛ぶように売れ、一躍詩人としての名声を確立した(1812)。その後さまざまな恋愛事件が彼の身に起こり、1815年一貴婦人と結婚したがたちまち醜聞を噂され、翌年大陸に逃げた。スイスでShelly と邂逅。その後ヨーロッパを転々としながら遊蕩生活を送ったが、1823年志を立ててギリシア独立義勇軍に参加、翌年 Missolonghi で熱病のために死んだ。数多くの作品を残したが、諷刺詩 Don Juan(1818-1824) が最大傑作とされる。(以上参照:『ロマン派詩選』上島建吉注釈、研究社)
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<バイロンの生涯>

 放蕩で有名な貴族の家に生まれる。蛯足(lame)といわれる、足が不自由なハンディキャップを
負っていた。父親の死後スコットランドのアバディーンで貧困生活を送ったが、彼を育てた母親は、
謹厳でよく癇癪を起こした。エキセントリックな振る舞いをする女性だったともいわれる。
 10歳のとき、彼は大伯父の死によって第6代バイロン男爵となった。貴族の子息が通うハロー校を
経てケンブリッジのトリニティ・カレッジに進み、卒業後は友人とともにスペインやポルトガル、
ギリシャを旅する。このときの体験をもとにした詩作『チャイルド・ハロルドの遍歴(Childe Harold's
Pilgrimage
)』が出版されると、初版が3日で売り切れるベストセラーとなった。このときのことを
「ある朝目覚めて、自分が有名になったのを知った」といった彼の言葉は有名である。生来の美貌も
あってか、彼は一躍時代の寵児となった。1815年に結婚したが、異母姉オーガスタ・リーとの
醜聞などによって、彼はたちまち社交界から締め出され、翌年にはイギリスを去ると、そのまま
生きて祖国の土を踏むことはなかった。この後大陸を放浪しながら『チャイルド・ハロルドの遍歴』
第3巻、第4巻を執筆。イタリアに移る。
 1819年から執筆した彼の代表作『ドン・ジュアン(Don Juan)』は全16巻の対策で、スペインの
ドン・ファンの物語を基にした強烈な諷刺詩である。
 1823年、トルコの圧制に反抗したギリシャ独立戦争に参加し、ミソロンギーに上陸したが、24年、
この地で客死した。

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