(1787-1827)
Londonの洋品店に生まれた。幼児から幻想を見る傾向があり、絵の天分があったので、しばらく版画家の弟子になった(1771-78)。1782年結婚。1783年処女詩集 Poetical Sketches を、1789年には独特の彩色版画印刷法で Songs of innocence を出した。以後同じ手法で The Marriage of Heaven and Hell (1790)、Songs of Experience(1794)などを絵入りで出版した。1797年ころから俗に"prophetic books" と呼ばれる一連の難解な幻想詩を書きはじめ、1820年ころまで版画にして出版しつづけたが、理解する読者はなく、おおむね貧困のうちに生を終えた。(以上参照:『ロマン派詩選』上島建吉注釈、研究社)
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<ブレイクの生涯>

 ブレイクはその言行から非凡な人物と言われ、画家、職人、詩人、彫版師などとの広い活動範囲を
持った。生涯70年。多くの作品を残したが、当時では、それらはあまり日の目を見ることはなかった。
 1757年11月27日、カーナビーマーケットに生まれる。靴下店を開いていた父ジェームズと
母キャサリンの三子として誕生した。ブレイク夫妻の子どもは六人で、長子ジェームズは商人と
なり、二子ジョンは幼い頃に病死している。三子がブレイク本人で、四子はジョンという。ジョンは
ブレイク夫妻の一番の秘蔵っ子であったが、軍隊に所属して早世した。五子ロバートもまた早くに
世を去った。六子はブレイク夫妻の子供の中で唯一の女性、エリザベスである。彼女は生涯結婚
することはなかった。
 ブレイクの才能を発見したのは、父親であった。ジェームズはブレイクに教育を施し、ブレイクは
早くから画才を示した。12歳になる頃には詩も書き始めていたという。そして1767年、ヘンリー・
パーズの画学校にに入学することになったが、父親は十分な学資を与えなかったため、1771年、
ブレイクは14歳で一流彫版画家ジェームズ・バーシア(James Basire)の下に弟子入りし、彫版を
学んだ。バーシアはブレイクに寺院で古碑の寫しなどを作らせ、ここでブレイクのゴシック趣味が
養われたといわれる。その後ブレイクはロイヤルアカデミーの画学校に入学し、その後、父の家で
雑誌の挿絵などの依頼を受けて描いていた。この頃ブレイクはポーリーという少女に恋をしたが
報われず、失恋の痛手を癒そうと植木屋の下に寄寓するようになる。その植木屋の娘キャサリンと
出会い恋仲になり、1782年8月18日、彼女が21歳のとき2人は結婚した。
 自由恋愛を主張するブレイクは、一時、第二婦人を迎えようと言い出し、夫婦の円満を裂いた。
しかしキャサリンのブレイクに対する想いは崇拝に近いものがあったといわれ、ブレイクが彼女の
嫉妬の種をつくることがあったものの、一応は幸福な結婚生活を全うしたようである。2人の間に
子どもは生まれなかったが、2人はレイセスターフィールズに家を構えた。
 1784年、父親が亡くなり、兄のジェームズが後を継ぐと、靴下屋の隣に相弟子のパーカーと
共同で"Parker and Blake"という版図店を開いた。弟ロバートは店に来てはブレイクから
彫版術などをならったが、まもなく病死する。ロバートが亡くなってから、ブレイクはロバートの霊が
天井を抜けて昇天するのを見たと言っている。
 この後ブレイクは、パーカーと別れて一人で彫版印刷業を始めた。ブレイクは、この頃ロバートの
霊が夢に現れ光華印刷(Illuminated Printing)と言われている腐蝕彫版術を教えてくれたという。
この方法でブレイク自身が作成した詩集は皆、製版、印刷し、絵の具で色彩を施した。
 1789年、『無垢の歌(Infant Joy)』、1794年『経験の歌(Infant Sorrow)』完成。1800年、
ウィリアム ヘイレー(William Hayley)と出会い、挿絵の依頼を受ける。ブレイク彼の家から
程近い場所に移り住み、キャサリンと共に3年間逗留したが、これはブレイクにとって始めての
田舎暮らしであった。ブレイクはヘイレーに命ぜられた彫版や絵を作製したが、命ぜられるままの
機械的な仕事に、自由主義のブレイクは不満を感じるようになった。また、ヘイレーは流行的な
物を欲したが、ブレイクは流行に乗ることはなかったので、2人はたびたび口論するようになった。
そのようなことが続き、ブレイクはロンドンに帰りたいと願うようになった。
 そのうちに、ブレイクは兵隊と争いを起こし、告訴される。ブレイクはもともと反戦主義者だったが、
その言動が兵隊の反感を買い、国事犯として逮捕されたのである。翌年の1804年1月11日、
治安妨害罪で裁判を受ける。無罪になるも、ブレイクはますますロンドンに帰りたいという気持ちが
募り、ついにロンドンに帰ることになる。
 詩作においては、1808年に『ミルトン(Milton)』、1818年、『エルサレム(Jensalem)』が完成。
これは幻覚による神秘的な言風の詩で綴られた偉大な作品となった。ロンドンに帰り幾つかの
作品を作るも、ブレイクは人気が出ず、やがて日々の糧をも得難い程の窮地に陥っていた。
 1809年、個人展覧会に出展したが、これも世人の注意をひくには至らなかった。それでも新たに
得た友人や、妻キャサリンの存在によって、ブレイクの晩年は比較的穏やかに過ぎた。
亡くなる前には、神を賛美する歌を作り口ずさんだりと、とても幸せそうだったと言われている。
 1827年8月12日、遺言によりブレイクの骸はブレイクの家の墓地に埋葬された。

<<Edited by Kamiya
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