高山の祭り屋台 全国各地の祭礼に山車や鉾などが奉納されているが、高山の屋台の祖形は延享3年(1746)に完成している大津絵(現在の秋祭り鳩峯車の前身)だと考えられている。飛騨が幕府の直轄地天領となった元禄5年以降、江戸神田祭りや山王祭りに曳き出される屋台の影響を受けながら、高山独自の形態を創り上げてきたものと推察される。そこには、宮大工職人たちの優れた技術と町衆の美意識が凝縮されており、各町内では豪商の財力を得て屋台造りを競い合ったものと思われる。 天保年間以前は漆喰塗りの屋台専用の蔵がなく分解して分散保管していたので、火災による焼失が多く、改造・再興を繰り返してきたが、その事が優れた屋台の構造や装飾を生む契機となったとも考えられている。 春祭り恵比寿台 この屋台は台名を再三変更しており、「はな子、殺生石・蛭子台」等を経過して恵比寿台と称するようになったのは安政4年(1857)からである。下段の半丸窓上の龍五態の彫刻や見送り枠の両側の「手長・足長」の彫刻は何れも彫刻の英才・谷口与鹿の手によるものであり、上段には恵比寿様の飾り人形が載せてある。
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