T旧石器時代・縄文時代のくらし


 旧石器時代は小集団ごとのキャンプ生活を送っていたと考えられています。この時代の遺跡では、石器や石片(石器を作るときにできる破片)、赤く焼けた石や炭化物の集中するところがみられます。これは、当時の人々が石器を製作したり、火を焚いたりした痕跡です。寺屋敷遺跡(藤橋村)でも石器や石片が集中して出土しています。

 縄文時代の人々は森で実ったドングリ・クリ・シイなどを土器に入れて煮炊きしたり、アク抜きをしたりして食べやすくしました。また、弓矢・釣り針・網などを使って、動きの速い中型・小型の動物や魚・貝などを捕らえて食べました。さらに、イモなどを掘るための土掘り具や木の実をすりつぶすための石皿や磨石なども作りました。このような道具の変化とともに縄文時代の人々は竪穴住居を中心としたムラを作り、移り住む生活から一つの場所で定住生活をするようになりました。

U竪穴住居の移り変わり


 縄文時代の竪穴住居を細かく観察すると時期や地域によって違いがあることがわかります。例えば炉に注目すると、前期の終わり頃に住居内に初めて作られ、中期の中頃には石で囲うようになります。これは、東日本からの影響のようです。また、中期の終わり頃には住居の出入り口などに土器を埋める「埋甕」がみられるようになります。これも、東日本から伝わったようです。

V縄文土器のかたち


 縄文土器は、深鉢と浅鉢という2種類の形に大別され、それ以外の形のものは非常に少ないようです。早期までの土器はほとんどが深鉢であり、底の丸いものや尖ったものが多いようです。定住生活が本格的に始まる前期になると、浅鉢が多く作られるようになります。また、深鉢は胴部がくびれたり、口縁部が彎曲するものがでてきます。中期には、深鉢にいろいろな形のものがあらわれ、装飾も豊かで立体的な飾りがつけられるようになります。また、吊り手土器や台付き鉢など特殊な形をした土器が多く作られるようになります。後期になると、それまで様々な文様で飾られていた土器の他に文様をほとんどもたない深鉢が増えてきます。また、注ぎ口を持った土器が出現します。晩期になると、深鉢の文様は非常に簡素なものになり、浅鉢は黒く磨かれ光沢を持ちます。しかし、東日本では、多くの土器に文様が施され続けました。

「いにしえの美濃と飛騨」図録(財団法人 岐阜県文化財保護センター)より抜粋