1.(1)あたらしい憲法のはなし
【木 田】そこで,そういう環境の中で,私自身が担当させられたのが『あたらしい憲法のはなし』(資料3-1),それから『民主主義』上(資料3-2)・下(資料3-3)という2つですね。この『あたらしい憲法のはなし』(資料3-1)というのは,社会教育でみんなに,今度は憲法がこう変わりますという,選挙をやるから皆さん出てきてくださいというところにも使うもんですから,教科書という意味じゃなくて,参考書ということで広く一般の人にも読んでもらえるようなものをつくるという発想で進みました。だから,『あたらしい憲法のはなし』(資料3-1)も,『民主主義』上(資料3-2)・下(資料3-3)も,憲法の話は選挙運動にも使えるというぐらいの気持ちで書いてもらった。それから『民主主義』の方は,これは戦後の日本改革の根本にわたることだから,本格的にちゃんと執筆者を動員して書きましょうということに動いたわけです。
たまたまそのときに教科書局というのは,庶務課と第1編集課と第2編集課という3課だった。それにもう一つ調査課というのができておりましたが,このころは割に気軽に課をつくったりつぶしたりしていますから,教科書局というのは,私が入ったころは庶務課,第1編集課,第2編集課と3課だったと思いますが,第1編集課というのは人文で,第2編集課というのが自然科学の関係の教科書をつくっておったと思います。それが昭和21年の3月には調査課が加わっていて,そこへ青木誠四郎先生という人が入ってきたんですね。調査課というのが,その次の昭和21年12月4日には教材研究課ということに変わっています。この青木誠四郎先生というのが,戦後のカリキュラム改革の基本線をおつくりになったなというふうに僕は思っているんです。坂元さんのおやじさんでしたかなあ,文部省から山口の教育学部長にお出になった・・・。
【有 薗】坂元彦太郎さんですね。
【木 田】あの方が青少年教育課長をやっておられてある程度助言をしてくだすったと思っています。
1.(2)執筆者
【木 田】『あたらしい憲法のはなし』(資料3-1)というのは,慶応(義塾大学)の浅井清先生に,もう全部お任せをしたような形で書いてもらいました。ただ,次の『民主主義』と同じなんですが,教科書に初めて漫画を入れることにしました。その『あたらしい憲法のはなし』の漫画(資料3-4)は,手塚治虫だと思いました。国定教科書の場合には,執筆者の名前を全部表へ出さないことになっておるもんですから,日本側にはどなたが書いたということは残らないんですね。みんな消えてしまっております。それから『民主主義』上(資料3-2)・下(資料3-3)は,横山フク(隆一)ちゃんと清水昆と手塚治虫の3人に手伝ってもらったと。これは『民主主義』上(資料3-2)・下(資料3-3)というのは,かなりかっちりした中身のものですから,相当気合いを入れて執筆者を考え,いろんな方にお願いをして10何章ぐらいになったでしょうか,全体が。これも,ちょっと調べようと思ったら,みんなこっちへ送っちゃったなあと思って。そうですね,上だけで11章ありますね。下が12~17章あります。これはかなりがっちりした内容のものにそれぞれなっておると思います。
これをつくるために,ベルさんという,どこの大学の先生だか知りませんが,社会科の先生がやってきまして,ベルさんと対応でこれをつくりましたが,一番私が参ったのが宮沢俊義さんの担当部分です。鵜飼信成だとか土屋清とかまあそれぞれの,これは私,今思いつきでものを言いましたけれども,戦後の民主主義その他解説をされた,研究をされた研究者の方もアメリカへ行って,何章はだれが書いたとみんなちゃんとチェックしてありますから,ああやっぱりアメリカへ行った方が勉強ができるんだなと思っておりますが,そのときに,こういう人に頼んだかということは,みんなわかると思うんです。それで,最初は宮沢俊義さんに一番最初の書き出しのところをですねお願いしたんです。「民主主義の本質」という。それから第2章が「民主主義の発達」,第3章が「民主主義の諸制度」「選挙権」「多数決」「目ざめた有権者」「政治と国民」「社会生活における民主主義」と,こういう順番で並んでいまして,「民主主義の本質」は,この柱から申しますと,民主主義の根本精神,下から上への権威,民主主義の国民生活,自由と平等,民主主義の幅の広さと,こういうそれぞれの柱をベルさんと相談しながら,まあ,これでいいかと言いながら,今度はこっちで西村巌さんが調査課長で,英語の先生でしたこの人は。
医科歯科(東京医科歯科大学)から有光(次郎)さんの通訳に連れてこられた人,調査課長で,青木さんの次の課長さんになっていただいて,この本のかじ取りをしてもらったんです。人を割り振っていくときに,この第1章の「民主主義の本質」は,宮沢俊義先生にお願いをしたわけです。そして私は,いろんな大先生がそれぞれの章をお書きになったやつをもらって,そして翻訳に回して,向こうと折衝をするという役なんですね。で参ったのは,宮沢さんのものなのです。これはね,こういう趣旨の本ですからと申し上げたのに,全然,中身がかたいんですよね。とても一般の読み物にならない。ところが何ていったって大先生ですからね。宮沢さんにこれ書き直してくれというわけにはいかんので,外すのに困っちゃったわけです。そして,尾高朝雄さんが,これはまた私の大好きな『国家構造論』(岩波書店1936)とかですね,『実定法秩序論』(岩波書店1942)とかという,法律学の先生としては本当にすばらしいなあと思う本をお書きになった方が,京城(帝国大学)を離れて東大に来ておられた。
そして,ひょっと見たらね,宮沢さんよりもちょっと先輩なんだなあ尾高さんの方が。これで助かったなあと思って,それで尾高さんのところへ行きましてね,実はかくかくしかじかだと,こうやって宮沢さんに書いてもらって,この第1章に一番困ると。宮沢さんのこれはね,ちょっとほかとバランスがとれないんだと,書き方が。そうしたら,尾高さんが,わかったおれが全部引き受けてやると。これは,その意味では尾高さんが全部通して書いたんです。ほかのところは直す部分はそんなにはないんですがね,第1章だけは,くしゃくしゃに直って,没で,尾高さんが全文書いたわけです。で,やっとこっちもねこれなら向こうへ持っていっても恥をかかんなあというものになってこれができたんです。当時,東大の看板の大先生の本をポシャっとやっちゃったもんだから・・・。だけども,ほかにどうしようもないんで,苦労したんですが。そのことで,ようできたと言われているわけですよ。
1.(3)漫画
【木 田】そして,しかもそこへ書き込んだのがこの漫画(資料3-4)なんです。何のことかわからない漫画もありますよ。だけども,持っていったベルという男がね,君なあこれ筋としてはよく書いてもらったと。立派にできたけどね,やっぱり難しいやと。だから,中学や高校の子供に読ませるのには,アメリカの教科書ならば漫画があると,こう言うんです。漫画があるって。それどんなのだと言って見せてもらったわけです。そうしたら,本を持ってきて,いろいろとアメリカ式の漫画が書いてあるんですね。なるほど,私もちょっと考えましてね,いや,息抜きに少し漫画があっても悪くないなと思ったもんですから,それまで,恐らく教科書には漫画というものを書いたことはなかったんじゃないかと思うんですけれども,漫画を入れました。で,頼みに行ったんです。
横山フクちゃんの家は鎌倉まで行きましてね,こういう本といったって,表題を見せて若干の文章を読んでもらうほかないんですけれども。清水昆は,新聞社に行ったかな,手塚治虫と。それで,漫画を書いてもらったんです。漫画を書いてもらうと,どうせ見せに行かないかん。そうしたら,おもしろかったのは,「あれ,木田くん,これ完成しとるんかねこの絵は」と,こう言うわけですよね。それは,清水昆だって筆で,ぱぱぱっとこう書いておもしろいけれども,これでもう終わっとるのかと言うから,そうだと言ったら,そうかねえと一生懸命になってベルさんがアメリカの教科書を見せてくれたわけです。そうすると,アメリカの教科書はみんな塗りつぶしてありますなあ,漫画も。線だけの漫画というのはないんだよね。ああ,やはり違うもんやなあと思いましたけれどもねえ。これをつくるときには,執筆者選びと漫画で苦労しました。だけども,出てからはこれが一番評判がいいですね。
2.青少年用新憲法読本
【木 田】そのときに,私がもう一つ左の連中に使われたのが,『青少年用 新憲法読本』(資料3-5)(西村巌,木田宏著 東京新聞社1947)というやつです。これは,いわゆる教科書屋さんに,教科書局で,これですね,『青少年用 新憲法読本』(資料3-5)という教育新聞社のものです。それは局の偉い人が頼まれて,憲法もできたことだから急いで売ろうとした出版屋の思惑に偉い人が乗って,「おい,書け」とこう下がってきたわけなんですよ。私の知らんときに憲法は出ておるわけですからね,その新聞記事も何にも当時のことを読んでないし,教科書局の近辺で探しても憲法の話なんていう材料がないんです。そこで,その中に決定的なミスを一つやったんですが,特別国会というのは,総理の指名をやる国会のことを特別国会というんですが,憲法のどこを読んでもそれが出てこないわけですよ。だから,特別国会というのは困っちゃったなあと思って,特別な国会であると書いたんです。それは,もう恥ずかしくてしょうがないです。
ところが,これだけを左の連中が使うんですよ。9条か何かですなあ恐らく。それで,戦争放棄ということについて,かなり憲法の表現のとおりの真正直な言い方を,ちんぴらですからやらざるを得ないんですね。だからというわけじゃないんですけれども,文部省におった木田までがこんなことを書いておるじゃないかと。平和憲法というのは,こういうふうに大事なんだといって,そこにだけ利用してくれるもんですからね,これはいつまでも参っています。しかし,当時の雰囲気からしますと,戦争放棄ということは,当時の為政者が真剣になって考えて言ったことだなあというふうには思います。それは,安倍さんのその後のものの言い方の中にも,ちょくちょくとそれが出てきますし,それから私も今になって考えると,こういう技術のものすごく進んだときに下手な戦争なんかやろうものなら,原爆だっていたずらで幾らでもできるわけですからね,ちょっと科学兵器が進み過ぎたなあと思っていますけれども。そのためにだけ私が書いた『青少年用 新憲法読本』(資料3-5)というのは,左に使われています。日教組と対応したときに,これを持ってきてねいじめてくれましたよ。
3.日本の国語改革
【木 田】教科書局におるときに,かかわったのはそういうことなんですが,国語という問題については,隣で国語課というのができていて,当用漢字ですね,これなんかは非常に早く制定されておりますから,日本の国語改革というものを,かなり漢字数を減らせということについて,960何字でしたかね,教育用常用漢字をつくって,あといろいろと字体を変えるとかということまでずうっと,これは年代を比べてみると,昭和21年ごろに相当仕事が進んでいると思います。でも,ローマ字の時間を200時間はそのころは使っていたと思います,1年間で。だけども,やっぱり日本人というのはローマ字にするわけにいかんし,英語にするわけにもいかんですわねえ。今,半ばまじめに文部省が取り組んでいるので,なんてつまらんことをしてと思ったりしていますけれども。しかし,本当に日本の国語・国字という問題を,教育の世界でもうちょっと真剣に考えなきゃいかんのかなあというふうに思います。私は不思議でしょうがないんです。
聖徳太子の17条の憲法からして,あれ日本語ではないんですよね。ですから,当時の中央におられた人たちというのは,中国の言葉で用を足しておられたんだと思います。ですので,日本語を守ってきたのは女性群だと思うんですよね,紫式部だとか。日本語というのはある意味でこんな不思議な言葉はないなあと。すばらしい言葉というのもないし,漢字というのは,これは訓読みにしたりどうかして大変うまい使い方をしているなあ。そのことがアメリカの人にはなかなかすぐのみ込めないと。どうしてこんな難しい字をつくって,一部の人間しかわからない言葉を使うから,日本というのは右に走っちゃうんだと,こういう発想ですよね。そこで,国語研究所のことで言っておかなければいかんのは,アメリカさんが立派だなあと思うのは,日本語の識字力の調査をやりましょうということになったんです。ですから,この間亡くなられた先生なんかもそうですが,統計数理の所長をやっておられた林知己夫さんといったかな,日本の学者で一緒につくって,日本中で200ばかりのサンプルをとってですね,識字調査をやったんです。
そのときに,アメリカの会社の職員まで駆り出して使って,日本の研究者も相当集められてね,いやあ,かなりのいいお手当てをもらって,わしの月給よりはよかったよと言う先生が大分おられますけれども,200ばかりのサンプルを使って,ずうっと識字調査をやったんですね。そしたらね,アメリカより,うんと識字率がいいんですよ。それでとうとう,そのワーワー言っていたやつが引っ込めちゃったわけです。しかし,あれはやっぱり効きましたなあ。その後,識字調査というのは,一つもやってくれんなあと思って残念に思いますけどもね。アメリカさんの偉いところは,そういう現実に調査をして押えてみて,あっと思うと引っ込めるんですね。国語研究所というのは,本当は国語研究所ができる前にいい仕事をしていてね,できてからは何をやっとんだと,いつも僕は文句を言っていたんだけれども,できる前にもう仕事は済んじゃったような感じになっちゃったんです。国語研究所は昭和23年3月(設置)。
【後 藤】早いですね。
【木 田】早いです。そして,そのときの研究所長というのはね,法律では人事院の総裁と同じ書き方になっているんです。絶対に権威者が座ってきちっとやって,文句を言わさないというのが国語研究所設置法のつくり。それをつくるときに,そのちんぴらどもがGSまで行ったわけですよ。GSまで行くというのも初めてだったんだけども。占領中のことというとそんなことですかねえ。やっぱり国語の改革というのは,もう少し歴史としては今日の書体,その辺がどういうふうに動いてきたかということを押さえていただきたいなあと思います。できたら,やっぱり日本語をもう少し大事にしてもらうといいなあ。今は言葉が崩れているという感じですよねえ。
【後 藤】その当時,ローマ字論者というのは,大分おったわけでしょう。
【木 田】おりました。
【後 藤】あちこちにおりましたか。
【木 田】仮名文字論者もいましたしね,国語審議会は,隣から聞こえてくるのを聞いていて,なかなかにぎやかでしたよ。
【後 藤】一番印象に残っているのは大塚明朗先生ね,亡くなる2,3年前のことですが,ローマ字でねタイプを打っていただいたんですよ。
【木 田】そうですか。あの先生は理科の先生でしょう。
【後 藤】けれども,もうローマ字協会の会長さんでした。
【菊 川】年賀状はいつもローマ字でいただいてました。
【木 田】それはやっぱり,その意味では今はタイの専門家石井米雄さんがおられますなあ。外交官からタイ語を勉強されて,そしてタイの文化をおやりになって,文化功労者をお受けになった。しかし,少数民族の言葉というものをいかに大事にしなければならんかというお話をしておられますけどね,日本は少数民族じゃないけれども,やっぱり言葉というものが文化の基本だということは少し考えて真剣にやってもらわんと,学生さんの言葉も乱れてしまうし,くしゃくしゃになりますよねえ。この戦後の国語改革という問題は,司令部から加わった圧力よりもローマ字化の動き,そういうことに対してどういうふうに対応していったかということと,途中で日本はもう息切れしてほうりっ放しになったように,言葉の問題があり,コンピュータ任せという方向へ行っちゃっているわけだけれども,ここのところはちょっともう一遍仕切り直していただきたいなあというふうに思いますが。それで,第2段目は切りましょうか。