文字ぷらす 1.兵役

1.学徒動員

【木 田】最初に,後藤先生のお世話で,私の雑な図書類,資料類(資料1-1)をこちらで引き取っていただきまして,本当にありがとうございました。今日の資料をつくろうと思って書庫へ下りていったら,ああ,(資料が)こっちへ来とるなあ(2004年3月/木田宏先生所蔵の図書類の一部を岐阜女子大学へご寄贈いただいた)ということがございましたけれども,本当にありがとうございます。はずかしいんですけれども,ああやって少しでもお役に立つということができれば,私としては本当に嬉しゅうございます。ありがとうございました。それで前回(1995年/岐阜大学)もお話をしたんですが,私は学徒動員で,昭和18年の11月に召集を受けまして,広島の第2部隊というところに入ったわけでございます。それからすぐ幹部候補生だということで,久留米に連れていかれまして,久留米から,幹部候補生のまだ修行中に南方へ連れていかれました。どこへ行くのかわからなかったんですが,どうも船の方向を見ておると,10数杯並んだ船に護衛の艦隊がいっぱいつきまして,夜だけ行動をするんですね。はあと思って見ておりましたが,結局南方へ行きました。

そのために日数が(かかるの)ですね。沖縄の列島に沿ってずうっと下がっていって,台湾の高雄の港に入りまして,これでさよならという,何というんですか,みんなそんな感慨を持って高雄の港からバシー海峡へ入っていったわけです。途端に夜,魚雷を受けましてね,もう本当にきれいだなあと思いながら,これ,どうなるかなあと思って見ていたわけですが,夏の夜の稲妻が空に光ると同じように,海面で,海の底で稲妻が光るんです。それはアメリカの潜水艦が発射をした魚雷がぶち当たって炸裂している光でしてね,気味の悪いことが起こっているんですけれども,きれいな光だなあと思いながら,南へずっと下がっていきました。バシー海峡は一晩では渡れなかったんですね。もう一遍,島陰に隠れて夜を待って,フィリピンのルソンの沿岸に入るということをいたしました。 幸いに,ルソン島に沿ってずうっと船が下がっていきまして,ここは片一方は陸地ですから,その間はあまり攻撃を受けることはなかったんですが,マニラへ上がりましてね,山下南方軍司令官,山下奉文中将が迎えに来てくれていて,ご挨拶をして,そしてマニラでこれでしばらくおるのかなあと思ったら,3週間ほどしてまた船に乗せられまして南方へ行ったんです。

そのマニラにおる間に,内地の方が毎日苦労されたのかなあと思いますけれども,機銃掃射の攻撃を大分受けました。すごいもんですね。機関銃でバーンと撃ってくる,砂ぼこり上げて,弾がこちらへ走ってくるというの。しかし,しじゅう敵の飛行機がおるわけじゃありませんから,マニラの街をぶらついたり,フィリピン人の顔つきを眺めたりしましたが,私はそれからシンガポール,マレーシア,インドネシアと移動して動きました。こういうことを言うと悪いんですが,フィリピンの人が一番気の毒で,そしてつき合いにくいところがあるなあという感じを持ちました。何か猜疑心を持ってこっちを見ておるという感じですね。日本から来て何じゃというような感じを受けたんです。これはマレーシアやインドネシアの現地で受けた感じと非常に違っていました。フィリピンというのは,スペインに本当にいじめられて,気の毒だったなあという。今でも全体としてごたついている点が多いんじゃないかと思いますけど,こういう体験をいたしました。

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2.シンガポールの植物園

【木 田】そして,シンガポールの第3輸送司令部と(資料1-2に)書いてございますが,実はそこへ行く前にジャワ島に上がったんですね。シンガポールで間違いなしに船団が入りま して,すごい立派な文化都市というんでしょうか,今の東京の高層ビルを見ているような高層ビルが,シンガポールの港へ船で入っていくと,すっと見えるわけですから,なるほど大英帝国というのはすごいなあという印象を持って。シンガポールで何日か外へ出たりする,遊ぶ時間があったんです。 まあ思い出しますんで,ちょっと流れとは別ですが,申し上げておきますと,シンガポールには,大変立派な植物園がありました。

この植物園には,イギリス人のケンブリッジ大学のジョン・ヘンリー・コーナー(Jone Henry Corner)という植物園長が占領開始の当初からずうっとそこにいてくれまして,そして日本の研究者のときには徳川(義親)さんが植物園長で,次席かなんかで,イギリスのケンブリッジ大学の教授なんですけれども,それが所長でおられて,そして戦後まで回復の仕事を同じ所長さんがなすったんです。その方がですね,シンガポールにおける日本の人たちの植物園というものに対する扱い,それから学問というものに対する扱いというのを非常に高く評価してくれましてね,日本の学者の方々のおつき合いについて本を書かれている。それは,その本を英文で書かれて,イギリスで発行しようとしたら,こんなばかなことがあるかと,みんな断られてですね,出してくれなかったんですね。ところがその方のところで学んでいた女性の日本の研究者がですね,その本を読んで感銘をうけ,翻訳したんです,自分で。

これは中公新書になって出ておったと思います。(J.H.コーナー著, 石井美樹子訳『思い出の昭南博物館』中央公論新社 1982)シンガポールの植物園の,その占領中から戦後にかけての活動を,ずうっと占領者である日本の徳川公の差配でこういう研究者が来てということが書いてある。こんなばかなことないとイギリスの出版社が断ったのを,日本の出版社が先に出した。今日,毎年,日本学術振興会がお世話をして,陛下のご在位60周年の記念のお祝いの国際賞生物学賞を出しておられます。私自身がたまたま学術振興会の理事長をやっているときに,昭和天皇ご在位60年を記念した国際賞をつくることになり,学術振興会がお世話をして,その第1回の受賞者に,そのケンブリッジ大学の先生の名前が出て受賞されたのです。その本を見ていると,日本の研究者の方々が,戦時中一生懸命になって南方の植物というものに対する研究の姿勢をきちっと持ってらしたということがよく出ておるんで,日本人がほめたんなら,それは手前味噌かもしれませんけどね,そういうことがありました。

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3.緒方信一さん

【木 田】シンガポールの占領ということについては,いろいろと悪いことがいっぱい流れますけれども,山下奉文中将がサインをして,日本軍が入っていったわけですけれども。司政官という形で民間から徳川さん始めいろんな関係者が行かれた。文部省との関連で申しますとね,戦後何代目になるかなあ,大達(茂雄)文部大臣のときに,緒方信一さんという方を,宮崎県の総務部長から初中局長に連れてこられたんです。その緒方さんという方は,警視庁のやり手でしてね,ゾルゲのスパイ事件を摘発した人なんですよ。ところがね,その人が,大達さんがシンガポールの司政長官になられて,片腕に持っていかれたんですね。シンガポールの警視総監というような仕事を3年,占領期間中ずうっとやっておられた。

ですから当然ながら戦犯だとかという議論が起こったんですけれども,これは当時のシンガポールの中華,中国系の方々始めいろんな方からですね,緒方という人は何もそんな悪いことをした人じゃないという証言が重なりましてね,そして占領後2年くらいたって宮崎県に,お国が熊本の人だったけれども,帰ってこられて,そこを大達さんが大臣のときに呼び戻して,これが文部省の戦後の幹部の改革に関係のある仕事になるんですけれども,いい仕事をされたわけです。ですから,緒方さんという方は私も教育委員会制度改正のときに課長としてお仕えをした局長さんなんです。人柄というのは必ず民族が違ってもわかるといいますかね,その人の誠実さというのはちゃんと相手の心に映っていくんだということがわかる。やっぱり基本的なものがどこかそこに流れているなあということを感じたお人なんですけれども。

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4.スマランの予備士官学校

【木 田】それから,しばらくして私はジャワ島へ行ったのです。ジャカルタに上陸をして,ジャカルタから汽車に乗せられて,スラバヤの方へ向かって,ちょうど島の真ん中辺まで行ったところにスマランという街がありまして,そこへ南方軍の幹部候補生の学校をつくってあったもんですから,久留米の予備士官学校と,スマランの予備士官学校で,5~6ヶ月ぐらいの訓練を受けたのでした。まあ何といいますか,軍隊におりますから,現地の人とそう生に接触をするという機会があったわけではないんですけれども,ジャワ島におるときには,これも非常にこう,青年たちと話をしても,お互いの信頼関係がつくりやすい。そしてオランダからのインドネシアの独立という仕事を日本の当局の人たちは一生懸命援助したわけですから,現地の青年たちというのも非常に好感を持って我々と接触をしているという感じがいたしました。ですから戦時中,フィリピンでは,ああ難しい人がいるなあと思ったんですけれども,シンガポールと,それからジャワ島ではですね,ああこういう人であれば,十分いろんなことが一緒にできるなあという感じを持ったんです。

と同時に,ジャワ島なんていうのは立派な道路がずうっと走っていましてね,鉄道も冷房車が走っているわけですから,日本よりはよほど技術的に進んでいるんじゃないかという感じがいたしました。なるほど,威張ってばかりおれんなあというのが私の印象でした。そこからちょっと飛びますが,ジャワで私はいい印象を持っていたもんですから,たまたま教育研究所長をやっているときに,数学の国際比較とか,理科の国際比較ということで,各国の研究者などとおつき合いがあって,オランダでその役員会があって話を聞いておりましたらね,皆さん夏休みにジャワ島へ行くのを楽しみにしておられるんですよね。そして,今年はここへ行って,こうだああだということをしゃべっておられる。僕はつい忘れてしまっていたもんですから,うっかり,いやあせっかくそこまで行くんだったら日本へ来たらいいじゃないですかと言ったら,いや日本へは行かんとかいって,これはしまったと思ったのです。

オランダは日本に一番の宝物を取られちゃったわけですからね。あっこれはしょうがないなあと思ったんですが。やっぱり歴史の流れというのは,そういういろんな思い出を残してくれると思います。ジャカルタに上陸をして,山手線のような鉄道がどんどん回っていますしね,それからクーラーのついた列車でもって運ばれたということなんかも印象に残っているんですが,しかし当時スマランという街にその部隊が駐屯して訓練をしました。やっぱり蚊にやられるんですね。夜間演習なんかやっていますと,かゆいと思ってこうやると,砂がザラザラザラザラと首にくっついたほど蚊が群がっていましたね。ですから,南方へ行かれた方はマラリアに,敵の弾よりはマラリアによけいやられるなあと思ったんです。ところが不思議なことに,私は第3乙で,普通なら召集にもならんところだったんですが,マラリアに ならなかったんですよね,南方へ行って。それで,これはどういうわけですかね,元気にしていました。

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5.シンガポールの第3船舶輸送司令部南方陸上交通隊

【木 田】で,昭和20年ですが,もう敗戦近くなったころ私はそこ(資料1-2)に書いてありますように,第3船舶輸送司令部南方交通隊という,ちょうど私の,まあ幸か不幸か私はそこで参謀部勤務になったものですから,南方全域の地図を見て,初めて,ここがこうだこうだというようなことを教えてもらったことになったのですが,管轄区域というのが,西はインド洋,マレーシアの西の方に若干群島(アンダマン諸島)があります。そこが西の端で,東が,ニューギニアの西半分,地図を見れば一遍でわかるんですけど,名前がうまく出てまいりません。南方全域といっても,レイテ島なんかのところは外れていた。

ボルネオからスラバヤからずうっと南方の地域を毎日見て,そして日本の船,船といっても陸軍の船舶部隊ですから,軍人の輸送と病院船の輸送とだけが仕事なんで,その参謀部におったもんですから,そのために内地との連絡,内地の本部は宇品-広島市の宇品にある,宇品との連絡は常時とれておりますし,戦況というのは一番よくわかる状態で仕事をしていたのです。多くの仲間はビルマ戦線に行きました。シンガポールを通ってずうっと。ですから,ビルマ戦線に行くまでに,もう大変苦労して,行っても,何というのか,恐らく不幸なことだった。まあシベリアよりはよかったかもしれませんけれどもね。私はそういう意味では非常に幸いに,戦争というあまり痛い目は直接遭わなかったわけです。ただ,それでも戦争をしていることですから,弾が飛んできたり,敵の潜水艦の攻撃を受けて,こちらの船団はくしゃくしゃになるというようなことをいろいろ経験したりしました。

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6.(1)終戦後

【木 田】それから終戦後は,まあいわゆる俗っぽくいえば捕虜ですが,捕虜になって,シンガポールの南の島に追っ払われたんですね,ジャワ海の小さな島に。そしてそこで何とか迎えの船が来るまで自活していろというようなことですから,またマラリアの蚊の中で,食べ物が少ないところで半年以上仕事をしていました。仕事というのは,実は戦後の方がある意味で忙しかったのでして,それは私がたまたま輸送部隊にいたということで,南方軍の日本人の引き揚げ,輸送というのを一応担当することになっちゃったのです。7万人,軍人・軍属を入れて南方におりまして,それを,船によってはそんなにたくさん積めませんから,便が動くごとに乗っけて内地へ送り返してもらうという仕事をしておりました。戦争中はシンガポールで電報を読んでいるだけの仕事だったのですが,戦後は無人島に入って,それぞれ様子の違った軍隊・軍属,そういう人たちに,それぞれ生活をさせるということ。ですから,桟橋をつくるところからやっていかなきゃいかんのですが,送り戻すという仕事をいたしましたから,戦後になって忙しくなったという感じがしています。

しかし,食べ物がなくなってくるしですね,しかし如何物(イカモノ)だけ食べなければ,何とか寿命というのは続くもんだなあという実感を持って帰ってきたんですけれども。そのとき,そうした軍隊生活全体を通じて私自身が感じたことは,見習い士官の端くれではありますが,肩章,階級というのは,本当に事が起こったときには役に立たんということだけ,これはよくわかりました。平時において階級章というのが意味を持つんですね。ところが戦乱だとか,土壇場だとか,いろんな状態が錯綜してきますとね,この肩章の星の数は全然意味をなさない。おろおろしちゃう人が出てくるんですね。ですから,社会的な階級というのが意味を持っておるというのは,平時においてのみである。そして,戦闘状態になって,いろんなことが難しくなってくると,弾がどっちから飛んでくるかわかんなくなっちゃうんですよ。これは人物というものができていなければ,本当に秩序というものを維持することはできないなあということだけは,しかと体験をいたしました。

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6.(2)レンパン島

【木 田】シンガポールにいたもんですから,一番早く英軍がやってきて,一番早く追い立てを食ったわけですね。追い立てられて行った島がレンパン島という島で,ほぼ無人島だったわけです。しかしそこへ,一番最盛期には2万,3万という人間が入った。で,レンパンだけで足らなくなって,その目の前にあるもう一つ大きいインドネシアの島でしたか,そっちへも追い込んだことがございましたが,食べ物がまずなくなってくるわけですね。食べ物がなくなってきたものですから,みんなごそごそと海草を食べ歩く,それからサルやなんかが食べている木の実は,人間も食べられるだろうというんで,それをみんなが食べていく。人間様の方がたくさん入ったんだから一遍にそういうものがなくなって。私自身があっと思ったのは,最初にレンパン島の図面を引いて,どこへどれだけの部隊を収容して,待っていてもらわなならんなというので図面を引いたときに,それはいろいろと湿地帯がたくさんありますし,川があるし,流れている。水の近くというのが大事なもんですから,川の流れと水というのは大事にして,道路をつくって,それぞれの部隊が自分の自活用の畑をつくっていってこうやる。人間が入ってきましてね,木を切っちゃったら,あっと湿地帯がどっか行っちゃったんです。

で,海がね,すぐ近くで魚が捕れていたと思っていたやつが,ずっと向こうまで,遠くに探しに行かなきゃならんし,魚はもう捕まらんことになってしまったというような変化が起こりましてね,その後日本が南方へ行って木材を切っているから,どうもならんという現象が,ささやかながら敗軍の兵隊やいろんな日本人の集団を世話したおかげでね,いやこれは大変なことだなあと思った。道路をつけるのにも,ここはこんな大きい川があるから,しっかりした橋をつくっていって,橋をつくって物資を運ばなならんもんですからね,道路をつけなきゃいかん。そしてでき上がってみたら,川がなくなっちゃっているんですね。ですから,これはえらいことだなあというふうに思いました。それほど人間がやっぱりこう自然を変えていっているんですね。これも大変な経験で。そうして,早く帰せということになったが,船が来なきゃしょうがないんですけれどもね。私どもが配船というか,乗船の世話をしておるもんですから,やっつけられるわけですよね。ですから,いろんな社会勉強というのをその間にさせてもらったというのがレンパンの生活でした。

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7.(1)安倍能成文部大臣の米国教育使節団を迎える挨拶

【木 田】腹がへって苦しい。食べ物は,一生懸命になってタピオカというお芋の類を植えては,小便をかけて早く大きくなれとやっているんですが。 そういうときにですね,ちょうど3月だったと思う,年が明けてですよ,まだ(昭和)21年の3月ごろだったと思ったんですが,年が明けましてね,たまにシンガポールからいろんなものが送られてくる。その中に日本でこんなことが起こっているという,小さいタブロイド判の新聞みたいなものが入っておりまして,ふっと星明りでこうやって透かして見たらですね,安倍能成文部大臣がアメリカの教育使節団を迎えて,こういう挨拶をしたという全文が載っていたわけです。それが皆さんのお手元に差し上げた文章なんです(資料1-3)。私は腹がすくし,病人はまわりにごろごろしているし,いつ帰れるかわからない。しょうがないなあと思いながらおったときなんですが。ひょっと1枚のタブロイド判を見ましたらね,これのほぼ全文が載っていました。で,やっぱり読んで感激をしたんですね。

(昭和)21年3月8日に大臣が挨拶をして,それで第1次教育使節団が来たという,そして日本の教育を立て直そうという勢いで乗り込んできた。これ読んでいますと,例えば,初め今度の戦争は,日本もちょっと間違ったことがあったけれども,(資料1-3の)2枚目, 464ページの終わりの方に,「勝てば官軍,負くればこれ賊」ということわざがあるんだが,勝手なことをしたってだめですよということを言うとられるんですね。だから「貴国が戦勝国たるが故に正義と真理とを枉げることなきを信じ,その戦勝国たる重圧が-これは率直にいって我々は感ぜずには居られません-我国に於ける正義と真理との滲透を促進し,我国の社会に存する様々の不正や欠陥,国民の性格や習慣に促はれる様々の弱点や悪弊を速かに力強く除去する一つの契機となり・・・」というようなことがありますが,「よき戦勝国たり戦勝国民たることも仲々困難であります。我々は敗戦国として卑屈ならざらんことを欲すると共に貴国が戦勝国として無用に驕傲ならざるを信ずるものであります。」と。そして自分の教育理念をおっしゃっているんですね。いやあこれをその星明りで読んだときには本当に感激をしました。

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7.(2)学生時代

【木 田】そして私は,大学におりますときにね,何になろうかと卒業前に考えるんですけど,始めは司法官になろうと思っておったんです。それで高文の行政の試験をとって,それから司法の試験を少し点数上積みしてやろうかと思いながら勉強していて,そして司法官なんだから裁判所へ行って見とかないかんなあと,裁判所回りをいたしました。そこでちょっとまた考えちゃったんですね。民事の事件というのは,何か弁護士同士がちょこちょこっとこうつぶやき合っていると,裁判官はその弁護士の意見によって,それでは本日はこれにて散会,休会いたしますというようなことを言うんですね。で,刑事の事件になるとね,それがまあ被告人が悪いんですからしょうがないけれども,「こらっ」てな感じで,検事と裁判官が被告人に向き合うという。しかし,兵隊でいろんな社会の人を見ていますからね,ですからあんまり何か特定のことだけひっ捕まえて,「こらっ」て言うのもこれもちょっとおかしな商売かもしれないと思って,しばらくどうしたもんかいなあと思って考えていたの。そうしたら,これが来ましてね。私はその前に,安倍能成さんのとか,そういう人文関係の声も一つ,村岡典嗣さんの『日本文化史概説』(岩波書店1938)(資料1-4)というのも差し上げてございますが,学生時代に一番感激した本がこの村岡さんの本なんです。

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7.(3)学問のすばらしさ

【木 田】そうして安倍さんのこの挨拶(資料1-3)を見たときに,本当に学問をやっている人は強いっていう,誰にでも言いたいことが言えるなあと感じました。就職して軍隊に行っていれば,留守家族はまだしかるべき処遇をもらっていたと思うんですが,何もしていないもんですから,早くどっかに勤めんならんが,しかしそれにしても,こういう学問で真実を追求するということのすばらしさといいますかね,それは本当に大変なことだ。そして,それがその人の力になっているんだなあということを感じたんです。それで,そういう学問のすばらしさということを,安倍能成さんには,オイケンの『大思想家の人生観』だったかという本があります(ルドルフ・オイケン著, 安倍能成訳『大思想家の人生観』東亞堂書房, 1912)。これもこっちへ来ていると思うんですが。そういうものにこう気を引かれたのがこの『日本文化史概説』(資料1-4)という新書版みたいな本なんです。

昭和16年か17年ぐらいに出たのですね。私は学校でいろんな講義を聞かせていただくときに,中等学校の歴史の教科書というのにはうんざりをしましてね。どうしてこんなに人の名前と年代とを覚えさせるような歴史になっているんだと思ったんですが。初めて,ここ(資料1-4)にもちょっと書きましたけれども,ランケの『世界史概観』(岩波書店1941)というのを岩波文庫で読んでね,これは全然歴史が違うと思ったんですよ。こういう歴史でなきゃいかんと思って,少しずつ探しているときに,この村岡さんの小さい新書版のような本にぶつかったのです。読んでみて感激しましてね。私だけじゃなかったんですが,これは京都におって専門の違うのがやっぱり東北まで講義を聞きに行ったといって,我々の仲間が言ってくれましたが。この村岡さんの本を読み出して,ああここに何か本当の歴史があるなあ,日本の文化というもののすばらしさがあるなあと思ったもんですから,この村岡さんには,『日本思想史研究』1・2・3・4と4巻出たんです。

私どもが学生時代は,まだ1と2ぐらいしか出ていなかったかもしれません。それからもう一つ,村岡さんが始められた本居宣長の全集が,私は村岡さんの『本居宣長』という全集はこれは留守中に全部そろえておきたいと思ったもんですから,留守家族のところへそれを送ってもらうように岩波に頼んでですね,そして軍隊に行った。帰ってきてみたら,8冊ぐらいしか来とらんのですよ。岩波がサボったかなと思って聞いてみたら,結局8冊しか出なかったといって返事が来ましたけどね。自来,村岡先生のおかげで本居宣長という国学のよさというのか,立派さという,「うひ山ぶみ」にしてもですね,本当にすばらしい学問の態度があの中に入っているというのを感じて感激したんです。まあそういうこともあったもんですから,安倍先生のこの文章(資料1-3)を読んで,ああこれは日本にもいい大臣が出てきて,建て直しのこともやってくださるなあというふうに思っておりました。

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