宜保先生
私は、このエイサーをやってもう40年ほどになりますけれども、結局沖縄も盆踊りですね、エイサーが沸騰するぐらい昔から盛んなんですね。
ですけれども、このエイサーがどういう意味を持っているかとか、あるいは目的、そういうふうなものは盆行事としてふさわしくないような解釈があるわけですね。このエイサーの目的というのは五穀豊穣のために踊られるんだというふうなことでやっておりまして、やっぱり庶民の言葉で言いますと、何でも五穀豊穣、子孫繁栄と言ってしまえばすべての目的はそれに集約されるわけですから、そういうことで、沖縄でもエイサーは五穀豊穣だということを言っているわけですけれども。
しかし、なぜ盆という仏教の行事のときにやるのかということがあまり研究されていなかったわけですね。そして、私は名護の出身ですけれども、非常に不思議に思いましてね。なぜお盆のときにエイサーというのがあるかということでずうっと疑問に思っておりまして、まずは自分の周辺からの「エイサー」の言葉ですね、詞章、歌詞をずうっと拾い上げてみましたら、たしか5〜6ヶ所ぐらい拾い集めてみたら、 共通する歌詞があるわけですね。これはもう「七月七夕中ぬ十日」という、この「仲順流れ」という曲があるわけですね。これがもうどこにでもあるわけですよ。どうもここの部分だけは捨てられない部分ではないのか ということで、結局、私は民俗学の方の専門ですから、民俗学の方でもトータルをとってみて、やっぱりみんな共通する部分があると、ここの方が一番大切な部分だということがわかりましたので、そして、踊りそのものは、庶民の踊りですから自分たちが踊りやすいようにどんどんつくっていくわけですね。
どうもこの歌詞が大切じゃないかということで、最初のレポートはそれを書いたわけですけれども、それ以後、沖縄の民俗芸能の、あるいは芸能全般についての、一番最初に本格的になさったのが山内盛彬という先生がおられましてね、この人は師範学校を出られて小学校教員をしているんですけれども、やっぱり音楽が好きで、おじいさんに王府時代のそういう音楽関係の仕事をした山内盛熹といいますけれども、その人が、沖縄の音楽は大切だから、もしかして首里自体は王府制度が消滅したんで衰えているんで、本物が田舎に残っているはずだから、おまえ調査しろと言われて、この人はもうずうっと我々の先輩ですけれども、交通が非常に不便なころ、歩いて、バスで行かれて、そして地方地方のそういう古謡というふうなものをずうっと調べておられたんですね。そして、その人の著書の中には、私がずうっと追跡していったことが端的に書かれているわけですね。
しかし私は、まだこの学者の共通知識といいますか、それになっていないわけですね。それで、私は、これはやっぱりきちっとそういうところを学問で研究して、県民全部に知らせなくちゃいかんということで、まずたびたびレポートを書くんですけれども、何分若いときは、学者の端くれ、全く誰からも眼中に置かれないわけですね。
そうしている間に、沖縄の文献をずうっと調べてみると、袋中上人が1603年ですか、沖縄に来られて浄土宗を広められたと。そして、今度行かれた方がいいと思いますが、桂林寺跡というのが商業高校の裏側の方にありまして、この袋中上人が沖縄に来られて浄土宗を広められたと。そして、そのときにお経を庶民にわかりやすく沖縄の言葉に訳して教えたということが、はっきり『球陽』という本とか『琉球国由来記』という本に出ているんですね。
そういうことがはっきりしているのに、まだ盆踊りというものは本当に袋中上人が持ってきたかどうかわからないというふうになっていたんですね。そして、お盆の季節になると、新聞が、各村々でエイサーが行われていると、それは全部五穀豊穣を目的とした行事であるというふうなことを言っていたんですね。
 
そういうことでやりましたら、外間守善先生が、本土の方の第一書房だったかどこかと提携しまして、その沖縄の歌を全部拾い集めると、これまでのものを。そういうことがありましたから、私は、じゃあこのエイサーのもと歌がどこかに残っていないかということで、ここの南部島尻あたりに調査し始めたんですね。これが見事な形で残っているんですよ。そして、私は、この一つの村を採集するのに2日も3日もかかりますから、それをずうっと追跡していって、私は5つばかりですかなあ、「仲順流れ」の歌をずうっと集めていったんですね。
そしてそれを外間先生の方に送りましたら、先生もびっくりしておられたんですね。というのは、外間先生自体が、もうすべて沖縄の歌謡のもとは『おもろさうし』であるというふうに思い込んでおられるんですね。
そして、今度は先生が、エイサーはおもろから発生してきたんだとおっしゃるのは、「エイサーおもろ」というのがおもろの中にありましてね、そして先生は、この「エイサーおもろ」からエイサーは発展してきたんだという説をずっと持っておられますけれども、私は、そうじゃなくて、 こういうふうに「盂蘭盆経」という中国のお経が日本に渡ってきて、そしてそれが浄土宗のお坊さんの方で勉強なされて、袋中上人は沖縄に来られて、お盆のときにこういう芸能をやりなさいと。そしてそのときに、親の供養は大切であると、あるいは亡くなった人の供養は大切であるということを、この「仲順流れ」というお経で教えられたというふうにして話しましたら、次第に近ごろは新聞の方も、エイサーは念仏踊りであると、そしてお盆の目的は供養であるというふうなことで、ようやく私が説明したことがあるわけですね。だから、私が第一発見者というわけじゃないんですね。山内盛彬という大正のころの有名な沖縄の学者、あの人がもう触れておられまして。
もう一つは、八重山にアンガマという盆の行事がありましてね。そして、八重山は八重山なりに芸能が発達してやるわけですけれども、歌詞を調べますとそっくり同じなんですよ。それで私は、沖縄の南島史学会という最初の大きな行事があります。そこで、八重山のアンガマと沖縄のエイサーは同じであるというふうなことを言ったら、みんなびっくりしましてね。表現のやり方が少し違うもんですから、だけども根は一緒だと。そして、その八重山のアンガマの言葉も沖縄から向こうに渡ったもので、そういうことをやっているわけですね。
そしたら今度は、近年になって那覇市の国場というところから、うちの方にも念仏踊りがあるから見てくれというもんですから行ってみたら、全く先ほどの、沖縄のエイサーで今華やかなのがありますね。あれとは全く違った素朴なエイサーを踊っているもんですから、ますます山内盛彬先生と私が主張したことが証明されたということなんですね。現在そういう形です。