高山祭りの歴史
京都の祇園祭、秩父の夜祭とともに日本三大美祭に数えられる高山祭。正式には、春の「山王祭」と秋の「八幡祭」の二つの祭りのことをいい、高山の春と秋の訪れを知らせる華麗なる風物詩です。
この高山祭が記録に登場したのは、春の山王祭が承応元年(一六五二)、秋の八幡祭が享保三年(一七一八)祭りの主役である屋台が豪華なものになったのは、文化、文政(一八〇四~)頃からと言われています。
高山の豪商たちは、屋台の修繕に資金を出し合い、飛騨の匠の伝統を受け継ぐ大工や彫刻家、塗師たちに腕を競わせました。屋台は改修されるたびに、ますます絢爛豪華になり、独自の美しさを競い合った飛騨人の心意気は、高山の誇りとして今も大切に守られています。
また、回転しやすくするために戻し車を設けるなど、屋台の構造や装飾を保護するために、曳き方も変っていきました。祭りを愛する人々が、伝統を大切にし、その一方新しいものを求めたことも、高山祭りが多くの観光客を魅了する祭りであり続ける理由の一つでもあります。
春の「山王祭」に登場する屋台十二台、秋の「八幡祭」に登場する屋台十一台は、すべて昭和三五年(一九六〇)国の重要有形民俗文化財に指定。昭和五四年(一九七九)には祭りの行列と行事が国の無形民俗文化財に指定されました。

高山のみどころ
高山祭は、長い雪国の暮らしから開放され花開く春祭と、取入れを終えて、満山に彩られる秋祭の二度行われます。
神社では、古風にのっとった祭事のあと、氏子中の供奉による祭行列が町にくり出します。カンカコカンと呼ばれる闘鶏楽、大太神楽や雅楽などの奏せられる中を、神旗、台名旗、神輿が、一文字笠に峠姿の警固をしたがえて長い列を作り、獅子舞は戸毎に訪れて氏子一同の弥栄を折ります。
一方、各町内の屋台倉から曳き出さた屋台は、神社境内などに曳き揃えられ、精巧で奇抜なアイディアのからくり人形の奉納があり、夕方ともなる各屋台は棟から勾欄へと飾られたたくさんの提灯の明かりを入れて「高い山からノーエ、谷底見れば」と、ゆったりした曳き別れ歌を歌いつつ夜祭は最高潮に達します。