□ 沿革 □

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〔原始〕


 
沢遺跡と御番屋敷遺跡 町域には24の遺跡、遺物出土地が確認されている。上気多(かみきた)沢遺跡は縄文早期の遺跡で、県下で最古の押型紋土器と炉跡のない竪穴住居跡1戸が発見された。太江(たいえ)川をのぞむ山麓大地の南端で、古川盆地の北半部を見わたせる位置にある縄文中期の御番屋敷遺跡からは7戸の炉跡が発見され、土器・土偶・石器などが出土した。500点の土器片や、住居跡もほとんどが縄文中期のものとされている。

 東部・西部の古墳群 宮川をはさんで西に信包(のぶか)古墳群、中野古墳群、高野古墳群が2kmほどの間をおいて発見されている。殿川が宮川に流れ込む信包古墳群の中心は、古川盆地最大の全長64mの前方後円墳信包八幡神社古墳で6世紀頃のものとされる。中野古墳群の中心は大洞平の二ツ塚古墳で、その1つは飛騨唯一の方墳である。高野古墳群には古川スキー場への谷間に溝添古墳・水上古墳・高野光泉寺古墳があり、このうち水上古墳は10.8mの横穴式石室を持つ。

〔古代〕  → ページの先頭へ戻る

 
古代寺院の址 古川盆地の地が古代以来、飛騨の中心の1つであったことは、豪族の存在を示す古墳によっても知られる。国分尼寺を大字上町字塔の腰に求める説(後風土記)もあるが、塔の腰廃寺出土の瓦は白鳳期の大和山田寺式に近い軒丸瓦であり、天平期の国文尼寺に比定することは難しい。白鳳期の寺院址は杉崎にも発見され、杉崎廃寺と呼ばれる。これは中央に舎利孔をもつ二重の心礎が見られ、出土の瓦から白鳳期の寺院とされている。杉崎の地には群集墳が発見されており、古墳に埋葬された豪族とこれら寺院との関係が考えられる。また寿楽寺からは土仏が出土している。

 深河郷と小嶋郷 「和名抄」によると、荒城(あらき)郡(のちの吉城郡)には、名張(なばり)・荒城。深河・飽見(あくみ)・余部(あまるべ)・高家(かぎへ)・遊遊(あそぶ)の7郷があった。深河郷は古川に、飽見郷は小鷹利(こだかり)に、高家郷は細江にそれぞれ比定されている(県史通史編中世)。平安末の「飛騨国雑物進未注進状」には、あらたに小島郷がみえ、この小島郷は旧細江村(地名辞書)とも、古川・細江それに宮川村の坂上(さかがみ)・坂下(さかしも)を含む地域(濃飛両国通史)ともいわれている。

〔中世〕 → ページの先頭へ戻る

 
国司姉小路家 鎌倉期のこの地については、その動向を知る史料はない。ただ、建武年間に南朝から参議姉小路家綱が飛騨国司に補任され、家綱は小鷹利郷の信包城を居城とした(尊卑分脈)。国司姉小路家は家綱以来、その居住の古河の地を京になぞらえ、杉崎の谷川を賀茂川と名づけたり、北野神社を祀ったりしたと伝えられている。

 姉小路三家の対立 姉小路はその後、小島家と小鷹利家と古河家の三家に分かれて対立し、ことに中央の応仁の乱の影響は山国飛騨にも及んだ。応仁の乱以後も、姉小路三家の対立に守護京極氏が加わり混乱が続いた。足利将軍は姉小路宰相家を援助し、文明10年(1478)年には同家の小島・古河両郷へ美濃恵那郡の遠山加藤左衛門尉を入部させ、信州の小笠原氏にもそれの援護を求めている(小笠原文書)。このためか姉小路三家の対立は文明12〜13年頃にはおさまった。

 浄土真宗の展開 白川郷に嘉念坊善俊が布教をはじめて以来、飛騨の地には浄土真宗の勢力がひろがった。本願寺からの本尊下賜はその地にすでに真宗教団が成立していることの追認でもある。「古河六郷之門徒」(歓喜寺文書)もこうした教団を背後にもったものと思われる。

 姉小路三家と三木氏 応永年間、守護京極氏の被官三木氏は益田(ましだ)郡竹原郷に入り、以後、飛騨に勢力を拡大して姉小路三家と時に協力対立、本願寺勢力と手を結んでいたが、天文13年(1544)、対立は兵乱に進み、これに武田・上杉両氏の勢力が絡んで飛騨の豪族の対立は激化した。弘治2年(1566)、江馬氏は小島・小鷹利・古河の国司三家を攻め、古河家はここに滅び、他二家の勢力は衰えた。永禄5年(1562)、三木良頼は、滅んだ姉小路宰相家の名を継ぎ、姉小路嗣頼と名を改め、足利氏もこれを認めた。三木氏は飛騨の支配者としての途を進み、天正10年(1582)、江馬氏を滅ぼして飛騨を統一した。

〔近世〕 → ページの先頭へ戻る

金森氏と古川 天正14年(1586)、三木氏を滅ぼした金森氏が正式に飛騨に入部した。天正17年(1589)、増島野に増島城を築き、高野のかつての古川城下の町家を増島に移動させ、城下町をつくった。熊崎喜右衛門氏所蔵文書の金森可重のあきない町にあてた諸役免除、店での品物売買、押買・押売の禁止を定めた3ヶ条の定書は、増島の城下形成の際のものである。増島城は元和の一国一城令で金森氏の旅館として利用されることとなったが、元禄の金森氏の移封により破壊された。

村々と検地 飛騨は山国であったが新田開発の努力は続けられ、15代の郡代小出昭方のとき、享和2年(1802)に田畑3町6反7畝12歩・高22石4斗9升8合が古川村で開発され、新田畑は小百姓の請作とされた。

 古川の町 姉小路家以来、古川の町は飛騨の中心の1つであり、江戸期になってもその役割に変わりはなかった。古川には御蔵が置かれ、古川郷内7ヶ村、小島郷11ヶ村、小鷹利郷7ヶ村の年貢が収められた。これらの年貢米は領民の食料として還元された。これが市売米で、古川では享保年間、700俵を町方分、100俵を上町大野分にわけ、惣小前割国で海魚は越中富山か運ばれた。海魚は高山の川上によって魚を仕入れていたが、明和5年(1768)には川上肴問屋と直接取引をはじめた。享保年間の古川の町方は家数560軒、その内容は寺4、家持303、借家183、地借63、門屋6、役屋1であった(飛騨国三郡郷村寺道場家数寄)。また庶民教育の場である寺子屋も高山につぎ15を数え、嘉永から文久三年まで続いた三塚宗助の寺子屋は生徒数136人に及んだ。町の生活は「蚕飼稼いたし、糸に挽立并近郷村々より蛹買取、糸を挽、他国之売払申候」(飛騨三郡余業取調所)とあり、近隣の村々も「冬之内薪木斬伐、古川町之売払申候」(同書)とあるように、地域の経済の中心をなしていた。

〔近現代〕 → ページの先頭へ戻る

 
行政区画の変換 現町域に該当する江戸期の村々は、明治元年飛騨県、高山県、同4年筑摩県を経て、同9年岐阜県に所属。明治7年末真(すえざね)村に1村合併。翌8年沼町村に2か村合併、古川町に5か村合併、小鷹利村成立、細江村成立。同12年吉城郡に所属。同17年古川町・小鷹利村・細江村に戸長役場を設置。昭和31年古川町に2か村合併し、現町域を確定。

 産業・経済の展開 近世に地域の経済の中心であったから、明治16年10月に高山より早く古川銀行が設立され、また資本金1万5,000円の振業会社も活動した。飛騨の経済の中心は高山に移ってからは、高山との連絡は大正7年に飛騨自動車株式会社がバスを運行し、さらに昭和43年に国道41号線が完成して、同51年には古川バイパスも開通した。産業面では大正12年に古川に県農事試験場の分場が設けられ、山村農場の拠点としての役割を果たした。昭和6年には吉城製糸工場が高野に創業し、同51年に閉鎖されるまでの半世紀にわたって吉城地方の養蚕業に貢献した。また200年余の伝統をもつ古川の和蝋燭の生産は独自の地場産業として注目されている。昭和38年に「低開発地域工業開発地区」ぬ、同47年に「農村工業地域工業促進法による工業導入地区」の指定をうけ、工場を誘致し、医薬品・窯業・電気機械工業などの工場は147に及んでいる。他方、昭和33年に県の無形文化財に指定された4月19、20日の古川祭や民俗館。増島城址、古い町並みなどを利用した観光化を目指す地域の意欲も高まっている。

 
教育と災害 明治7年の学制により古川にも7つの小学舎が発足し、師範予備学校も古川村に置かれた(関口議官巡察復命書)。明治12年の古川町の学齢人員は626人で、就学児は265人、就学率は42%であった。第二次大戦前には中学校はなく、昭和23年に組合立の吉城高校が設立され、同26年に県立に移管された。災害では明治37年8月25日と大正2年10月31日に大火があり、ともに970戸が被害をうけ、戦後では昭和38年11月8日にも火災に見舞われている。昭和10年には宮川の洪水により、民家が流失している。


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