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手向山八幡宮(県指定文化財)は奈良時代に聖武天皇が奈良の廬舎那大仏の造営をされた際に、この協力のために749年に大分県の宇佐神宮(宇佐市)から八幡宮を向かえたのが由緒である。手向山八幡宮には18件の国県市の指定文化財がある。
また、1998年12月、手向山八幡宮を含む東大寺、興福寺、春日大社、春日出原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城 宮跡が、古都奈良の文化財としてユネスコの世界遺産に登録されている。
楼門の右脇に建っている校倉造りの神宝庫は奈良時代の建造物で、正倉院の六倉の中の一倉(奈良時代に解体した部材)を江戸時代に移築したものである。かつては御神宝やお渡りの神輿等を祀っていた。校倉造りは校本(横材)を交互に組みあげ壁体とした構造様式をいい、校本には円・四角・三角状の角材などがあるが、手向山八幡宮は正倉院と同じく、三角状の角材である。
菅原道貴公の「このたびは 幣もどりあえず手向山 もみじの錦 神のまにまに」という有名な和歌が詠まれたのが、この手向山であり、その際、腰を下ろして和歌を詠んだとされる石が菅公腰掛石である。京都から吉野への天皇の御幸に同行する際に詠まれた歌であり、現在も、もみじの名所として知られている。
奈良時代に宇佐八幡宮(大分県)から八幡宮ご勧請以来の古い祭礼である手掻会(転害会)に使用された唐鞍で、現在、手向山八幡宮の絵馬は、その馬飾りを簡略化した図柄となっている。
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